今日出会った怒る人

・駅を降りたところで、男女の怒鳴り声が聞えてきた。それはかなり興味をわかせてもらえるような男女の喧嘩をしているようにしか聞えなかった。しかし、駅の階段を降りたところの両端で彼と彼女が叫んでいるのは、お互いの浮気について罵倒しあっているのではなく、ロッテマリーンズの存続について署名を求めて叫んでいた。
その前を通り過しながら、そういえばわたしは小学生の頃のロッテオリオンズという名前の頃からロッテファンだったことを思い出した。それなのに、ああついに合併してしまうのか。という感想しかもてない。しかし、署名を求める人たちはロッテの、あるいはプロ野球の存続について、何かや誰かに対して怒りを持って署名を求めていた。それはたしかに、好きな球団がなくなるという問題だけでなく、プロ野球の衰退の始まりなのかもしれない。ただ、プロ野球が衰退することがそんなに問題なのだろうかと考えて歩き去るわたしがいた。しかし彼らは怒鳴り続けている。
クロネコヤマトの人たちは日本郵政公社に怒っているらしい。「クロネコヤマトは変えません。」たしかに郵政公社がしようとしていることは、平等な競争ではないかもしれない。ただ長期的に民営化まで考えれば競争は同じ土俵になるだろうし、寧ろ利用者のヤマトが使えなくなる不便生の方が大きいのではないだろうね。と呑気に秋刀魚の内臓を食べながら考える。しかし、クロネコヤマトは月何億だかの売り上げを自ら減らしても抗議をしている。
「誰も知らない」是枝裕和監督が、巣鴨子供置き去り事件を題材にしたのであれば、あまりに底が軽いという論調で怒っている記事を読んだ。たしかに現実は女の子は長男の友人による無邪気な暴力で殺されていた。それなのに監督はこの事件を平成の「火垂るの墓」のように、家族愛映画ともいえるような視線で母親と子供たちを描く。記事は是枝監督のあまりに現代社会の問題意識の低さに対して怒っていたが、物語を写す映画という娯楽作品に、いちいち社会問題の追及が必要なのだろうか。だいいちたかが映画ではないか。しかし、記事を書く人は是枝監督の全作品までをも否定して怒っている。
わたしが最後に怒ったのはいつなんだろうかと考えた。不愉快なことはただ静かに沈ませて出来るだけ見ないふりをするだけだった。本当はもっとどうでもいいようなことにでも簡単に怒るべきなのかもしれない。