わたしがフェルメールについて知っているたったひとつのことがら

Shipbuilding2008-08-07

リチャード・パワーズ「われらが歌う時」を三日目で読み終わる。これは、この小説の厚さや熱さだけでなく、いろいろな出来事が符丁した2008年の夏の最後にきれいに入り込んだピースのような出来事となった。三日もかけた読書なのに一気に読んだ読書という感覚は、たぶん一年間放送された大河ドラマの一気見のような凝縮した時間を無理矢理浴びてしまった疲労感と、それでも長編小説を読み終わるということの素直な感動があった。これは本当にわたしが持っていてかつ望んでいたアメリ現代文学であってけど、またパワーズはここに永遠に残り続けるアメリカ神話を作り上げたのかもしれない。これはドン・デリーロやスティーヴ・エリクソン現代文学としての総合小説でもあるのだけど、むしろウイリアム・フォークナーの大河小説や周辺の知識の洪水にあふれたハーマン・メルヴィルの「白鯨」を読み終わったときの感覚に近いものだった。そして、わたしの家が本当に掛け値なしに貧しかったころ、寝たきりだったわたしは一生本を読めれば人生はそれだけでいいや。みたいなことを考えていたことまでを思い出させてくれた。この最近いろいろな出来事がひとつにまとまっているような感覚は、自分で自分の人生をまとめにかかっているようにも思う。

走りながら聴くiPodから突然流れるいくつかの音楽はフジロックで聴いた時のあの匂いや空気を思い出し、電車で聞く中国語のテキストのCDは直島の早朝を走りながら聞いていたあの海や空を思い出さざるをえないと同じように。わたしはフェルメールの絵を見ると、子供のときに誰かの病室に貼られていた陽に焼けたカレンダーと、それからその人がいなくなったベットとそこに取り去られたカレンダーの日焼け跡が残った壁を思い出す。あの何かの境界線の上にいるという感覚が懐かしく、またそれは今でもずっと続いている感覚なのかもしれない。
というフェルメールの絵を見に今日は上野へ。そして、春まで四谷の大学へ中国語を習いに会社から行けることになった。いろいろな偶然が重なっているのはわかるのだけど、結局最後は、何かが取り去られた壁のようなものになるのだろう。