ポニョとカンフー・パンダはどっちが可愛いかったか

Shipbuilding2008-08-06

赤塚不二夫が作り出したキャラクタは、一人残らず赤塚不二夫であったように。あるいはそれ以上に、今回のポニョこそ宮崎駿であって、世界の宮崎駿が執念で絞り出した自身のキャラクタなのではないかしら。と、満員の客席でポニョの顔のアップを見たときに思ったわけですが、もう「世界のほころび」とかを所ジョージが語りだす前後から、この映画自体の物語は綻んでいるとしか思えない。それでも、子供から大人までぽにょぽにょ言わししてまう、映画の力。。というよりも代理店やテレビの総合力にはなんでだろうという疑問を持ちつつも素直に感動する。日本の大人たちがこぞってジブリというブランドに映画館へ入る前から魅入られているのだ。と、そんな一方で、「またかよ」という押井守の「スカイ・クロラ」も森博嗣の原作自体が納得できる物語でないところで、またいつもの押井守美学の踏襲映像ではエンドロールとしての物語の終わりには感情の行きどころに落ち着きがなくなってしまう。
そもそもアニメ映画とはその動きがオリジナルで美しければ、それだけでいいはずだ。ということを思い出せば「崖の上のポニョ」も「スカイ・クロラ」も、とても優れたアニメとしか言いようが無い。ことには違いないのだけど、しかし何かあるべき大切な物がこの二つの映画には入っていなかったよね。と痛快に知らしめてくれるのが、「カンフー・パンダ」だった。これは、シュレックよりも楽しいハリウッドアニメだった。スカイ・クロラ崖の上のポニョに無かったと感じた物がカンフー・パンダには丁寧に折りたたんでリボンまでがかけられて入っていた。
そして、この夏にみたアニメ(のようなもの含む)のおすすめ順位をつけるのなら、こんな感じ
チェブラーシカカンフー・パンダスカイ・クロラ崖の上のポニョ

睡眠時間は小栗旬と同じなこの夏であるのに、さらにリチャード・パワーズの「われらが歌う時」を読みペルソナ4を始めてしまう。リチャード・パワーズは「舞踏会へ向かう三人の農夫」は読んだものの、「囚人のジレンマ」と「パワーズ・ブック」は読み切れていない。三人の農夫にしても、リチャード・パワーズの面白さがわからないということを確認するために読み切ったようなものだ。それなのに、今回の「われらが歌う時」は、素直に読みやすいことだけに驚き、またそれが物語として面白いことに頭を叩かれるくらい驚く。上巻だけ読んでみて様子見ね。という小心者の買い方をしたくせに大好きなコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」はまだ開いてすらいないというのに、平積みの下巻を翌日には買ってあと100頁くらい。
これは翻訳者と出版社が変わったことも影響があるのかもしれないし、あるいは新潮と高吉一郎氏が自分が翻訳をすれば売れると読んだ原作だったのか、新潮クレストから普通に新人作家の作品として書棚に並んでいても違和感がない。わたしが大好きなアメリカ南部小説のような香りに満ち、事情のある家族の奔流と、個が世界と繋がる様が面白い。やはりパワーズだからなのか、この小説の主題のひとつ「時」を扱うせいなのか、「過去、現在、未来など存在しない」と父親が語る通りに物語も時を行き来して描かれる。そしてそれがたいした読みづらさを感じさせない主題の繰り返しの構成は、またこの小説のもうひとつの主題である音楽の交響曲の構成となっているからなのだろうか。といいつつクラシックに無知なわたしがこの小説を読む間頭の中に流れていたのはジョーン・バエズの「Here's to You」だった。と思ったら実際にエンニオ・モリコーネのそこらへんの音楽をよく流して聴いていた。
パワーズの「われらが歌う時」はドン・デリーロスティーヴ・エリクソンを思い出させる総合小説であって、またそれ以上に米国人のための米国人民小説だった。神話の持たない米国という国に生まれた米国の作家達はかようにして神話を作り出すことに夢中にならざるをえなくなるのか。トラン・アン・ ユンノルウェイの森を映画にするくらいだから、必ずこのパワーズの小説もクリストファーとジョナサンのノーラン兄弟がハリウッドで映画化を企んでいるに違いない。

ペルソナ4は6月中旬まで進んで今回も腐女子よりのライトノベル的な世界を堪能しつつも、ペルソナ3のアイギス的なものの欠如に物足りなさを感じる。はたして最後までやるのだろうかなんて文字を打っている瞬間にどうせ完全クリアまでやるのだからねという内なる声が聞こえる。
この夏は今週末あたりから毎週のように、わたしの夏を探しに新幹線に乗る。わたしの行けなかったフジロックの夏は、9月13日と14日に木更津で発見。しかも木更津キャッツアイの舞台で。ってどの舞台のことだかわかっていないけど、それは渋さ知らズの天幕で。渋さ知らズを知ってから飯田で行われた天幕を見逃して依頼、念願の天幕。木更津であれば、ひとりで泊まってもさびしくないはず。今から天幕用の準備は怠らない。
父親の施設では認知症の老人から話しかけられ、中国人の友人が入院している病院でも知らない外国の老人たちから話しかけられる。老人達の話すそり下音的な発音がとても気持ちがよくて耳にいつまでも残る。
あとトイレを中心として読んだのは「これがニーチェだ」永井均永劫回帰とも呼ばれる説明を永井均がする「永遠回帰」の情熱的な説明は根源的な美の説明文を読まされているかのように美しかった。そしてそれは、またペルソナらのアトラス作品や押井守やカンフーパンダやノーラン兄弟のダークナイトの物語を思い出したり。そう。その美しい偶然は永遠に繰り返されなければならないのだ。

われらが歌う時 上 囚人のジレンマ これがニーチェだ (講談社現代新書)