「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」

その日、書店へ行ったのは松尾スズキがbuzzに書いているという「40歳からのフジロック」をどれどれと立ち読みするためだった。それが、書店横のベンチに何人もの小学生風の女の子が座って買ったばかりの「ハリーポッター」を読んでいるという光景に遭遇して驚いた。家に帰って読むのが待ちきれないのだという風で、上下二巻を買うと貰えるハリーポッター袋から取り出して、小さな手で思い思いの姿勢で本を読み耽っていた。そして、またわたしが見ている前で買ったばかりの男の子がベンチが空いてないからと、あるいは女子の近くに座りたくないからなのか、床に腰を降ろしてまた大きなハリーポッターの上巻を取り出して読み始めた。と、そんな勢いに押されて、わたしも発売されたばかりの第五巻を買って読んだ。
そして、とても聞きたくなった。小学生の彼らと彼女らはこの第五巻をどう読んだのだろうか。今までのハリーポッターと同じワクワク楽しめたのだろうか。ハリーポッターの第一巻は間違いなく子供向けに書かれたファンタジーだった。いや、たとえ巻をおうごとに思春期のハリーの内面の葛藤と対決の物語になる。とはいえ、所詮小学生が楽しめる物語のはずだった。それが作者は本気でこのファンタジーをビルドゥンクス・ロマンとして描こうとしているのかもしれない。そしてそんな英国の少年成長物語の真骨頂のように、ハリーはここにきて、悩み怒り続ける。それは綺羅星のごとく明るいファンタジー小説とは一線を期する。ファンタジーの本道を踏まえた世界観も作っている上に、現代小説のエッセンスまでふりまかれている。なんてことより、当の子供たちにいたいどう読まれているのだろう。ただ、ひとつ言えるのは子供たちが今面白く読めたとしても、大人になってもまた読み返すことができる本だということ。それにしても、本屋の出口に座らせて頁を開かせてしまう力こそ、ローリングの魔法の力だ。
DEATH NOTEと、ファイナルファンタジーはまた変化していく日本オタク文化の代表サンプルみたいだ。