もうなにもはいっていません

Shipbuilding2006-07-30

そもそもどうしてこんなふうに生きているのかなんてことは、誰も教えてくれないし、教えてくれたとしてもそんなことに聞く耳をもとうとは思わない。そんなことはどうでもいいことだからだ。そして、ここに意味のない文書をだらだら書けば書くほどに、そのどうでもよいぶりに意味が全くないことを続けている感が強くなる。就職活動や恋愛活動や健康活動のためにすらならないし。と、誰かのために伝えたいことなんて、もう何ひとつ無いのだということに気づいたところで、わたしの家族で唯一病院通いと縁が無いと思っていた実家の♀犬チャコまでが具合が悪くなって病院へ行く。
わが家族の一部の物語を知った看護士さんが涙ぐんでいた。彼女の少し太い腕は沢山の動物のツメ跡が幾つもついていて、おまけに普段は笑顔しか作らない我家自慢のチャコにまで噛みつかれたのに腕を引かないで噛みつかれるままにして、犬の顔をやさしい笑顔で撫でてくれた。「今わたしは犬になりたい。」と3秒くらいは思った。いや、夏は毛で暑そうだからやっぱり犬は止めときます。短く切られた爪の看護士さんの方がいいです。と無責任に考えただけで、腕が噛まれたように痛み出す。
次第に生き物らしくなくなっていく家族を見るに、自分でもよく自分が誰だったのか覚えていられなくなるので、自分の本当に好きなことだけを誰にも語りかける姿勢なしで読み辛いことこのうえなく殴り書いてみる。
今、わたしが好きで好きで大好きで、その人の顔を見るだけで自分の頭のどこかでカチリとスイッチが入ってしまうのは、ダニエル・ジョンストンイビチャ・オシムアリステア・マクラウドの顔。その歌声がどうしようもなく好きなのは、ロバート・ワイアットヴィック・チェスナットとしつこくもダニエル・ジョンストン。と書いてみんな体が悪いことに気づくのだけど、彼らの体が悪いことと歌声に惹かれてしまうことは、みな後から体が悪いことを知ったのだから関係がないはず。が、もしかしたらそれはそれで何か意味があるのかもしれない。デザインが本質を形成する。その逆は否なり。彼らの唄声は、確実にわたしの心のなにかを沁み取ってくれる。
週末は金沢に行くも、若者が少ないのはみんなフジロックへ行ってしまったからに違いない。こんなところにいていいのだろうか感が強まり、遠くで聞えたブラスバンドの音が渋さ知らズの音に聞こえた。今年も出てないけど。金沢では中学生や高校生らしき子供達が働く姿が随分と目についた。市場で働く体操服の子供たちが、違和感なく魚を売っていた。ホテルでは女子高生が、フロントを手伝っていた。はにかみながらも胸をはるようにして「この金沢は本当に素敵な街なんです」と99%くらい完璧な笑顔で話されると、それだけで金沢が羨ましくなる。自分の単純に女子の笑顔に弱い体質を気の毒に思いつつ、最近は何か面白いことを言って女子を笑わした記憶がない。最後に何か面白いことを言ったのは、小学六年生くらいまでかもしれない。翌朝、ホテルの喫茶店で昨日の女子高生がメイドの格好で跪いてコーヒーの注文を聞いてくれたことに複雑な気持ちにならずに素直に喜ぶ。金沢で初メイド喫茶体験。と脳内メモ。
金沢は兼六園の記憶はもうあまりなく、古い街並みは歩きがいがあったことと、金沢21世紀美術館。そして歳の離れたカップルが親子なのか恋人なのかを勝手に推理する能力を研磨しては楽しむ。「人間は自由なんだから」という相田みつをのようなコレクション展の中ではじめて名前を知った人の中からパナマレンコファブリス・イベールは、面白くて可愛い。現代美術とは可愛さと可笑しさとときどき残酷さ。これが入ればきっと村上隆グループに入れるのかもしれない。そして、パナマレンコ、ファブリス・イベールだけでなく、もう金沢美術館収蔵作品のアーチストの殆どがミクシィに登録されている。おそるべしミクシィ。わたしのお気に入りとなったヴィック・ムニーズはチョコレートの絵ではなくて針金の作品。
美術館のショップで「美術空間散歩」を購入。日本中の美術館を懲らしめに行きたくなる。とりあえず、青森県立美術館越後妻有アートトリエンナーレ。とか書いてみる。

美術空間散歩 (Eブックス―アート)

美術空間散歩 (Eブックス―アート)