きみのこえがすきだよ

Shipbuilding2006-08-02

ぎりぎりに会社に入り込める電車を3日に2日は逃す度に「30過ぎたら遅刻も個性」と頭に響くグループ魂の唄声を聴きながら妙に空いている京葉線に乗ると、必ず車掌の物真似をする青年と出会う。彼はいつも決まった時間に後ろの車両から現れ、車掌のアナウンスをしながら車内の広告の僅かな曲がりを直してやってくる。そして周りに溶け込むようにして立っているわたしの横に彼が立つところで、いつも丁度電車は駅に止まって扉が開く。そこで彼はいったんホームに降りるのだが、特急の待ち合わせで数分停車するため、彼はまた車掌のアナウンスの物真似をしてホームを歩き回る。わたしは、その彼の声をなんとはなく聞いては、楽しさのようなものを貰えて少しだけうきうきと元気になっていく。そして、実際のところ遅刻が多くなったのは、次第に気持ち良くなってきた彼の声を聞きたいからなのではないかしら。と自分の遅刻を見ず知らずの他人のせいにできてしまうわたしなのだ。
そんな、いつもは穏やかな足取りでやってくる彼が、今日はどしどしと足音をたてて、いつもの車内広告の曲がりも直さずに、いつもよりかなり早い時間にわたしの隣にやってきた。そして窓の先の一点を見つめてとても小さな声で「優先席付近では携帯電話のご使用をおやめ下さい。それ以外の所ではマナーモードに設定し」とアナウンスをしているのだが、次第にその声が大きくなっていった。さらに扉が開くと同時に、いつもの声とは違って周りを威嚇するような大声で「通話はご控え下さい。お客様のご理解とご協力をお願いします。」と叫び出した。ホームに立つとさらに大きな声で特急待ちの停車のアナウンスをはじめた。それから、発車が近づいて階段から走ってくる人たちに対しても大声で「発車間際の駆け込み乗車は大変危険です。おやめいただきますようお願いいたします。」と、何度も何度も怒鳴るのだ。とはいっても、走ってくる人たちは、彼がアナウンスを真似ているだけだと気づくと彼の顔を見ながら笑っていた。だけど、いつもと違う彼の声が動物の嗚咽のような音に変わっていくと、突然わたしはその彼の大声に胸の奥をぎゅうっとつかまれてしまった。決して目を合わせようとしない彼と一瞬だけ目が合うと、そのふりしぼった声を出しながら彼の目からは涙と呼んでいいのかわからないくらいの大量な水が流れているのが見えた。それから彼の怒鳴り声はもう何を語っているのか聞き取れなくなり、彼のきつく握られた拳は、ゆっくりと真上にあがっていった。
そしてなんだか今日一日中、わたしは今まで考えたことも無かった、彼がこれからこの駅で降りる仕事のこと。彼の両親のこと。彼が好きなこと。彼が嫌いな食べもののこと。彼が好きな友達のことを想像して過してしまった。彼にまた会うために明日もわたしは、遅刻をしてしまうかもしれない。
と遅刻の言い分けを書いてみた。そして、またわたしの好きな人たちの声を戸棚から開けて思い出し、彼の声もその中に入れてそっと引き出しを閉めた。
と、彼のようなすてきな主人公の小説を思い出したので

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハリネズミの本箱)

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハリネズミの本箱)

自閉症の子供が主人公の小説というのは結構あるのだけど、その多くは気持ち悪い。偽善的であったり、彼らの描写が適当であったり、あるいはあまりに神様的であったり。その点でもこの小説はとてもフェアな小説だった。
障害を持った人の描写で、それはないんじゃないかと思うのは松尾スズキだったり新井亜樹さんの芝居だったりするのだけど、面白いのだから不愉快になれやしない。