他人が食べられて私が食べられない物はおよそありません

Shipbuilding2007-01-14

わたしはだいたい一日の23と1/2時間くらいは、何も考えていない。その残された僅かな時間で食べたものの感想を気が利いた一言で言えるように考えることにしている。いつか料理番組に出演したときにV6の長野君に「なかなかやりますねえ」と認められるように。しかし、問題はその僅かな考える時間も加速度的に少なくなっていくこと。そんなわたしの「ぼおっと」度数が強まったのは、夏の終わりだか秋の始まりに、自宅近くの公園のベンチに座り続けていたときから始まったのだ。ここへ引っ越しをしたかった大きな理由のひとつでもあったその公園のベンチに引っ越しをして5年たってはじめて座った日だった。本当は行くところがあったのに、その公園で1時間ほど座ったまま動けなくなってしまったのだ。そしてそれ以来、本当のところは何を見ても聴いても読んでも食べても、それは、何もしないかわりに何かをしていたにすぎなかったのかもしれない。と、その理由はともかく。
2006年で家にいる限りは必ずみたテレビ番組は「VivaVivaV6」っ。てこのタイトルは何。調べたのだけど、そんな番組名だったのか?あの東京Vシュランとか?V6らがゲストといっしょに料理についてああだのこうだの言うだけなのだけど。もう大好き。一週間でわたしのほほをゆるやかに緩ませてくれるのはこのテレビ番組しかなかった。長野博くんの料理コメントはいつも素敵なのだけど、石原良純大竹しのぶらに、その長野君の世界がわからない。というその料理コメント自体が批評されるという。評論批評的な構造がおもしろい。過剰な修飾語は料理の本質ではないのかもしれない。と思うとき、それは料理だけではないのかもしれないとついでに思う。たとえば先週で終わったビル・ヴィオラのはつゆめについては、「なんかおもしろかった」とそれ以上、生と死の輪廻だとか意識下の表層とかそんな言葉を書くほど薄っぺらになる。現代も古典の美術もわたしには「なんかおもしろい」くらいの言葉しかつけられない。そして、美術雑誌やパンフレットの解説を読む度に、「宝石箱やあ」の彦摩呂節に見えてしまう。