ぐるりのこと。のこととかそこらへんのこと。

Shipbuilding2008-07-04


10時に家に戻り家事と勉強をすると寝るのが1時で3時半には起きてテレビでユーロを正座でみて延長戦に入らなければ走ってから会社という粛々とした生活が続いた。ユーロが終わってからも1時には寝て5時半には起きて走る。そして今は耳には音楽の代わりに中国語。口からも中国語っぽい独り言。週末は実家と施設に介護の日々だったところに今はサッカーの試合が入る。このあいだの対戦相手には外国人がやけに多い。と思っていたら生粋の日本人は監督だけだった。わたしが小学生の頃に住んでいた公団の一帯は最近は外国人や外国人の血が入った日本人が多くなり、壁の落書きまで多国籍化していて見ごたえのある風景となっていた。雨の中、われわれはサッカーという名の球の転がしあいをし、体育館の屋根の下で二十歳あたりの男女と飲み会になる。わたしの中国語の俄勉強はこのためだったのか。という程度の役には立つ。ただ、彼らのこの先には何もないのだ感。それでも、否、それだからこその刹那的な楽しいことだけを求める欲望力は眩しい。俺達のこの先は行き止まりなんだ。みたいなポルトガル語タガログ語や中国語を聞かされたところで、コミックビームではしりあがり寿の「そこはいきどまりよ。」が始まる。三宅乱丈カネコアツシ福島聡のあれやこれやも相当すごいことになっていたのだけどそんな漫画雑誌を読んでいる者なんていない。両チームの選手と同じ数くらいの連れの恋人達やそのさらに多国籍化が進んだ子供たちと主に避妊の方法と朝顔について語り合う。世界のナベアツをあらゆる国の言葉でやるゲームが苦しくなるくらい楽しくて数年ぶりに笑った。
雨が小降になると途端に、誰かの恋人や子どもを載せてバイクで彼らはさらなる多国籍化を進めるために団地へ帰っていった。não chore sobre o leite derramado。覆水难收。ようやく掬った水が手から溢れるような気持ちになる。この感情は何っていうのだったろうか、とロボットのように最初から持ちえないものを思い出そうとする。わたしだけが彼らが帰ると言った意味にはならない場所へ向かって一人で歩いた。

映画「ぐるりのこと。」は梨木香歩の「ぐるりのこと」とは、どうやら関係がないのだね。と観終わってようやく気づく。それから「ハッシュ」の印象とは全く違って。おまけによくみかける「夫婦を描いたいい映画」なんていう印象はわたしには全く持てなかった。この映画「もまた」監督自身のことを描いた映画だった。夫婦や子どものあることで行き辛いと思っている人にとってこの映画はきっと見事に気持ちがリンクされてしまうところがあって、そこはある人たちにはあぶない映画になるのかもしれない。人が人を思う、その可愛いやりとりは「ハッシュ」からこの映画の前半までは健在なのだけど、子どもの死から、映画はその鬱陶しさぶりに拍車がかかる。そしてそこがわたしはとても好きだった。ここにこそ作者自身の闇から湧き出てくるような細かな描写のリアルさに頷けた。しかし、妻が夫に泣き出して二人で抱きあってから、彼女が回復していく描写がとても嘘っぽくてついていけない。商売としての映画を成り立たせるに仕方がなかったのか。
自分の闇に一度でも掴まれてしまった者は本当の意味では、そこから抜け出すことはできない。というのはわたしの考えで。わたしの考えはたいてい間違えている。監督が語る人が闇から抜け出すには、人とのコミュニケーションしかない。というのは、それは正論なのかもしれない。だけど、そここそが容易にできることではなくて、そんなことが出来るくらいなら。。と思ってしまう。生きる鬱陶しさをここまできちんと見せてくれて、それはないだろうという感じでころころと、「いい話」っぽく映画が転がっていくところに、そんな映画的無理矢理感には納得できなかった。と、微妙感を覚えながらもエンドロールの音楽でこの映画の一番の場面を思い出すのは片岡礼子の裁判シーンだった。この片岡礼子の芝居は恐いくらい凄い。そして、本当に短かったあの裁判のシーンにも、橋口亮輔の痛いくらいの思いは美味しくいただいた。
片岡礼子の振り絞るような芝居と、雨が止んだとたんにバイクで帰った行った彼らが重なった。彼らの行き止まり感は、何かを休まずにし続けることにすり替える力のあるうちは彼らもわたしもまだ大丈夫なはず。

朝顔が咲きそうだ。朝顔は朝咲くと夕方萎んでもう二度と咲かない。ということを母親がフィリピンへ帰って父親も殆ど家に戻らなかったので15歳から働いている女の子からとても大切な内訳話のように教えられた。明日は早起きをして、朝顔が開く瞬間を見てやる。