炎のジプシー・ブラス

予告編で見た少年が凍った湖からホルンを取り出す。というのは、そこから映画の物語が始まるというのではなかった。映画はあくまでファンファーレ・チォカリーアの活動を追う音楽ドキュメンタリーだった。そして、その間に少年が湖で拾ったホルンを修理に頼み、最後には修理が直って彼らの乗る列車を追いかけながら「ぼくも入れておくれよ」と叫びながら電車を追いかけて終わる。という主題的には、ここに希望と再生がこめられているらしい。
が、そういった映画文法のことなど、ずっと向こうにおいておいて。この映画はひたすら、ファンファーレ・チォカリーアの音楽を聴くだけで十分だし、音楽をひたすら聴かせるための映画だ。「アンダー・グラウンド」や「黒猫・白猫」で、知った彼らの音楽が全編を覆う。ただ、そこで想像していたような彼らの生活や、ジプシーの暮らしざまを知ることも、地図に出ていないような村からこの音楽が生まれなければならなかった理由を知ることもできない。ただただ、彼らの音楽がそんな東欧の村から生まれて東京の夜にたどり着くまで。その間なりっぱなしの音楽を聴くだけだ。音楽の出ずるところと辿り着くところは、単純な人の魂を揺さぶれるかどうかなのでしょ。と冷房の効いた映画館の扉から出るやいなや、吉祥寺の熱風でくらくらしながら、ちらしを手にするわたし。