日本映画考@アテネ・フランセ

瀬々敬久トーキョー×エロティカ Tokyo×Erotica」(トーキョー×エロティカ 痺れる快楽)2001年のP1グランプリだったとか。ピンク映画だからとかで面白さが倍増してしまう感覚はわたしにはないのだけど、この映画のことを思い出す度に遡って全てがわたしのツボを押してくれる。物語を再構築すると

1995年、物語の語り部であるケンジがバイクで走っているところで、街に散布された毒ガスによって死んでいくかのよう。1997年「彼が死んだあとの時間」、その恋人ハルカは、昼はOL夜は売春婦となっていてウサギのヌイグルミを着た死に神を名乗る男にラブホテルで惨殺されたよう。1995年「彼女が死んだあとの時間」、妻のいるヤクザ風の男は不倫していた。死神が現われ、愛人は架空の銃によって自殺をする。天安門事件の1989年「彼も彼女も知らない時間」、バンド仲間のカップルは、互いの恋人に秘密の性関係を持っていたが、そのメンバーの一人が死神でセックスをしたあとに何事もなかったように恋人のところへ戻った彼女をまた銃で撃つ。スーパーマンの格好をした死神(川瀬陽太)の「イェス!」そして、2002年、死んだはずのケンヂとハルカは再び出会い、新しい物語が始まる。映画の最後、死神や死んだはずのメンバがそろって渋谷の路上で演奏をしている。

死神、ウサギのヌイグルミ、遡る時間は、映画「ドニー・ダーコ」と酷似している。製作年度がほとんど同時なので、どっちがどうだかわからないが。おそらく瀬々敬久監督もドニー・ダーコを知っていて作成したのだろう。しかしそんなことは、もうどうでもいいくらい、こちらの方が遥かに吸引力のある映画となっていた。架空の街であるトーキョーで、一見何の繋がりもないような人物達を描く。そして、俳優達によっておそらく地であったり台詞であるのだけど白黒のドキュメント風を装って「生まれる前の時間と死んだあとの時間て、どっちが長いと思う?」という質問と答えが繰り返される。それが他の作品でも繰り返される監督のテーマなのかもしれない。ただ、この疑問自体がわかりづらいように、質問に対して気のきいた答えをする者がいない。朧げな記憶では最後にハルカ役であった佐々木ユメカが女子高生の格好でその質問に唯一素敵な答えをしたあとに、渋谷の街が映り、聴きようによってはUKロックのような憂いのあるポップな音楽を弾いている若いバンド仲間の演奏の場面に繋がって、全編の生と死の輪舞が終結する。
ただ、今回続けてアテネ・フランセでピンク映画を続けて観て、たしかにセックスシーンは溢れているのだけど、これがピンク映画を観に来るお客にとっては、欲望に対して優しい映画ではないのではないだろうとは思う。特にこの一般映画を何本も製作している瀬々敬久作品で、どれだけ欲情をするために映画館に入った人たちを満足させられるかというと、それは不満しかあがらないのかもしれない。というもはやピンク映画失格なピンク映画だ。その代わりに、全編を飾る死生観やそれにまとわりついているガジェットのようなものたちや「死ぬまでの時間をどう生きるか」という観客への問いかけに、観客席に座りながら恥ずかしい思いもさせられたところを含んで、わたしはこの映画を青春映画とよぶよ。
今回、集中的にピンク映画を観れたことで、ネットで他の人たちがこれらの作品をどう観たのか知りたくて探しまくった。世の中には本当に映画が好きな人が、当然のようにピンク映画を映画館で観て、それらを同じ目線で面白がったりつまらながったりしていた。わたしの面白がりかたと全く違っても、見た人が本当に映画が好きだと、それらの
文章を読むのがとてもとても面白い。映画が好きな人が書く映画の感想は、それがその作品だけでなく映画全体の愛する確信みたいなものを感じると、とてもいい気持ちになる。哲学用語や過去の作品名に充ちた評論家なんかじゃなく、自己満足的言葉の羅列でなく、普通の生活をして普通の生活が見える映画や本や音楽の感想を探せばたくさん読めることに、今更ながらああネットバンザイと気づいたこの夏最後の一週間。