舞城王太郎 「好き好き大好き超愛してる。」ISBN:4062125684

村上春樹以降、小説にはオスが登場しなくなった。しかしそれはもちろん、村上春樹が小説の上だけでオスを消してしまったのではなく、おそらくいつのまにか日本からオスは消滅していたのだ。村上龍中上健次が描こうとしていたオスは実際には既に日本では絶滅していたオスだったのだ。

もともと舞城王太郎の描く「ぼく」の存在感のなさは、ずば抜けている。それがわたしやあたしの語り部になったり、女子の会話だけに存在感があるというだけではない。舞城王太郎の「ぼく」には体がないかのようなのだ。そして、何度も何度も暴力とセックスで覆った世界で絹のハンカチに覆ったような愛を呟き続ける。そこには、命を奪うということ、どんなに傷ついても立ち上がるということの現実的な意味がすっかりと抜けている。だけど、もちろんそれは、舞城王太郎だけでなく、今の小説やゲームや漫画でも同じことになっていて、あるいは現実がそうなっているのだ。
今年の芥川賞候補作だけでなく、直木賞候補作を一緒にしても、小説として一番面白かったのは間違いなく舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」だ。
女性の名前で章が分かれている「好き好き大好き超愛してる。」の架空の未来を舞台にしたニオモが、そのうそっぱちな愛と死の世界のサマが際立っていて、しかしその際立ちぶりは庵野秀明というより鬼頭莫宏を確信犯的に薄めた感じが憎たらしいくらい中身がなくて面白い。
そして愛を叫びつづける「柿緒」では、「ぼく」は死んでいく女性を愛しすぎてみせる。愛し過ぎていないなら、十分に愛していない。とR・D・レインだけでは物足りずにパスカルの言葉を引用してまで、「ぼく」の恋愛を正当化する。それがわたしには、作者の愛されたい願いにきこえる。「愛は祈りだ。僕は祈る。」という言葉自体作者の純粋な願いなのだろう。
ということで、黒田硫黄尾玉なみえにペニスがついていても、彼らの書く物語は女子漫画であるのと同じように、舞城王太郎にペニスがあろうがなかろうが彼・舞城王太郎は女なのだ。たぶんつづく。