イケニエの人  は、内容にふれてます

もう半端ではない不評をもらっているイケニエの人を観た。
そんなに、「どうして公演をしたのかわからない」とか「忙しくて放り出したのか」とか「中途半端な終わり方」とかとか。えんぺ一行レビューの無星や星ひとつには「そこまでは」ひどくないだろう。と「そこまでは」を思う。
皆川猿時さんの「本当は無いものをあるものにする」という役回りはとても面白い。それは、発掘や温泉のことだけでなく、最近の松尾芝居の芝居自体が演劇論や自分の作家論に読めてしまう。そもそも田村たがめさんと実生活の夫婦で舞台であの二人の関係というのが、勝手に興味深い。アメリとビリーの最後の愛しているが故の理不尽な想いも面白い。そういえば、舞台でいくつもの口づけシーンが盛りだくさんだった。いつもたくさんな恋人関係が描かれていても、こんなにたくさんのキスシーンをひとつの舞台で見られたのはのは、はじめてだ。というか、そんなに大人計画本公演で見せなくてもいいですから。とは素直に思う。
そして、物語もきちんと終結して、これもいつもと同じようにはじまりに繋がって終わる。だけど、いつもと違うのは、最後のカタルシスが薄かったことか。あのロケット建設工事って何だったのだろう。と、ヴォネガット的SFと終末が好きな松尾さんの芝居に度々出てくるロケットも今回だけは、その必然性がなかったかも。
そして、あのイケニエを出して生き残った役者が、本当に役者として生き残っていくことなの?生き残るということは、イケニエが必要なことなの?とか、そんな風にも宮崎吐夢さん好きなわたしは思ってしまった。
と、もうみんな松尾スズキは終わったとか、大人計画は限界だとか言い過ぎ。とはいえ、今回の公演はそう言わしめたくなるだけの何かがあったというか、何かがなかったのかもしれない。だけど、本当の意味でここ10年以内の売れるという意味で成功した劇団というのは、大人計画だけかもしれない。そしてわたしが知っている限り、今ある劇団で第二の「大人計画」のごとく、作家や役者がマスコミにとりあげられていく劇団はいないと思う。そして、これだけ個人が売れているのに、とにかく解散をしないで劇団を続けているだけで偉い。もはや誰が偉いのかわからないけどエライ。
ただ例外なく劇作家は歳をとると、人を笑わせることが難しくなっていくものだから。今では、野田秀樹鴻上尚史渡辺えり子の芝居でみんなが笑えたというのが信じられない。それは、書く人の笑いの感覚が古くなってしまうというより、次第に世間とのづれが出てしまうものなのでしょ?と、笑いの観客温度も低かった松尾節を聞いては、そう思ったりもしてしまう。
だけど、やはりまだまだ5年も10年もこのまま「大人計画」として続けてほしい。となぜか寂しくなりながらドラクエの単調な闘いを繰り返して眠くなりながら思う。そうそう、ドラクエの猫もかわいいが、芝居の中で出てきた、猫の玩具の中途半端な可愛さが忘れられない。写真は、京都のお土産やの睨みをきかせる猫。