馳星周の功績は周星馳を日本に紹介できたこと

ではないだろうか。と、思うくらいが精一杯の「長恨歌」読後感。
不夜城 鎮魂歌  不夜城II (角川文庫) 長恨歌―不夜城完結編 

不夜城」は遠くで響く歓声だ。彼がこの「不夜城」をもってデビューをしたときは、多くの人がジェイムズ・エルロイやアンドリュー・ヴァクスの名前を挙げて、彼の処女作を称えていた。そしてそれが少しも大げさに感じられないくらい、緻密さと熱のこもった見事なノワール小説だった。それは、日本では誰も書きえなかった、ノワール(暗黒)小説という、翻訳文学でしか味わえなかった食べ物をその物語と文体の両方で味あわせてくれた。そして、名前すら知らなかった日本の作家の作風を説明するために、いきなりエルロイの名前を出してしまう方も出されてしまう方もあの時は全く違和感を覚えなかったのだ。しかし、それが続編の鎮魂歌を少しだけ小さな拍手で迎えたあと、あまりに同パターン同キャラクタ達の物語を読まされることに辛くなってくる。それでもどれもがある水準以上の小説であったのかもしれないが、日本の多くの作家と同じような多作ぶりを発揮されると、知らない世界を読むことの期待がなくなり、読む前からたいていの印象を推し量るようになって、そしてたいていはその通りの感想で読み終わってしまう。
と、おそらくここ2年くらいは全く馳星周の小説を読んでいなかったところで「不夜城」から8年がたって完結編が発表された。それはあの劉健一が生きてきた情念や愛憎の決着を確認するためだけにでも、再び馳星周の本を手にとらざるをえなくさせる。しかし、やはり想像したような裏切りの繰り返し劇が何度も使い古されてかなり薄まってしまった、読みやすい文書として描かれていた。そこにはあの読む者をも巻き込むような熱さが少しも感じられなく、もはやどこに日本版エルロイと感じられたのか思い出せない寂しい完結編となっていた。作者にすら、望まれずに書かれしまったという8年後の完結編小説。それは、歌舞伎町という変わり身の早い街を舞台にして同じテンションの物語を紡ぎだすことが出来なかったとしても、作者だけの責任ではないのかもしれない。

と、そこで馳星周ペンネームを周星馳からとったのだ。と説明した頃の周星馳は役者としてチャイニーズ・オディッセイらの作品がビデオで見れるくらいで、日本では監督作品の食神が公開の目処もたっていなかった。ああ、それが今や。という話。