いっつのっとばっど

「一度壊れた時計は完全に直すことなんてできないんだぜ」〜時計屋のおやじの息子

録画した「吾輩は主婦である」を土曜の夜に見る。毎回首をひねりながら思ってしまうのだけど、宮藤脚本は舞台よりもテレビの方が面白い。温水さんが大人計画関係に絡んでいるし、来週の予告編のクドカン組のようなキャスト達におなかいっぱい。テレビを見る度に、こんなにいい話が上手い人だというのに驚くのだけど、無理をして作っているいい話なのか。どこかで折り合いをつけているのよね。とか勝手に頷く。W杯だっつうのに、昼ドラを土曜の夜にためいきをしながらも、ちくわと梅干しを入れたうどんを食べながら見られるわけだから、今の体調は「そんなにわるくない」と自分を励ます。W杯だっつうのに、テレビ東京アド街の「執事喫茶」を見ながら、これも「そんなにわるくない」というか、「よろしければ働きたい」と考える。いや、執事なんですからね。どうせ、ホスト顔の若者だろうよ。という素人妄想を微妙に外した人たちの顔もわるくなかった。しかし、執事喫茶で働くことを考えるなら、執事になることを考えてみようと考えた。と、仕事のことを考えるたびに、自分が満足に出来ることが、殆どないことも思い知らされる。
ゆっくりと音楽や本を読んでいこう。から、思い切って、ライブや舞台の予定を入れてしまえばいいのだと合点。夏のロックフェスティバルをいろいろ検索してみた。たぶんどうやっても検索にひっかからない、愛知の「Rock on the Rock」に出演者的にはもっとも惹かれる。惜しむらくは、すでに終わってしまったところか。現実的には、フジロックは今年は行かず、歩いていけるサマソニに、SCRITTI POLITTIフレーミング・リップスを聴きに行きたいきもするが、こう歩いてライブ。歩いてライブフェスティバルでいいのだろうかしら。
と、思案気に頬をさすりながら、結局、行かなければならないライブなんてないし。見なければならない映画も、読まなければならない本も漫画も、聴かなければならない音楽なんて、なにひとつありしないじゃないか。と、どこかに向けて腹が立つ。こちらがそんな風に立っていることも全く気づかれないことで、自分を気の毒に思う。
「自分をかわいそうだとおもってはいけないよ」と子供のころから何人にも繰り返し言われては、それなりの大人になりかけのときに、村上春樹の「自分を憐れんではいけない」みたいな言葉を真に受けてしまったものの。あまりに長く魔法をかけられていたのか、あまりに強い薬から醒めてしまったのか。こう激しく思う。『自分の人生くらい自分で勝手にいろいろ思わせろ。』と。
大人計画本公演の「まとまったお金の唄」は、これって中身を考える前にタイトルを発表してしまったに違いないよ。と終わった頃に気づくが。久々に全うな松尾スズキ臭い芝居が見れて満足だった。神様とか相互する時間や運命とか障害者とか、それでいて相変わらず強引にキレイにまとめる手口も見事だった。もう中身に触れて書いてしまうと、個人的にもっとも好きなエピソードは、語り部?の平岩紙が母親である市川実和子に、本当は私は生まれていないんじゃない?と聞いて、頷かれるところ。つまり、今までの語り部は存在していなかった。というのが、物語としてクラクラするくらい刺激的だった。ただ、いくら障害者や精神病やセックス的な描写が出てきても、昔の頭の奥の方がズキズキするような匂いを感じることは無理なのかもしれない。というところにも納得。それでも下北沢は本多劇場に帰ってくれたことだけでも嬉しい。なんか、もっと怪しいものを探したい、ポツドールでも物足りない時は、駅前劇場に靴を抱えて何度も座り込めばいいだけかもしれない。
演劇なんか、必要でないものの、サイタルもののような気がするし。そして自分に合っている劇団なんていうのは、本当はあまりに数が少ない。それは自分に合っている人の数と同じくらいなのかもしれまいよ。というわけで、今、私が自分に合っていると勝手に考えている劇団は、少年王者舘維新派。この人たちは永遠に変わらないことを続けている。というわけで、見なくてもいいはずの、彼らのこの夏の公演は、なんとか見てみたい。それがわたしのこの夏のフェスティバル。