死期・KISS・煤・砂・夏・通夜・八洲・炭・耳・水・砂・涙・店・蝉・道・父・致死・死ぬ・沼・前・永・家・遠・無辺・駅・傷・ずっと・永遠・相対・いたい・アイタイ・終

生まれた時からひたすら見続けている唯一無比のトランス劇団、少年王者舘の「I KILL」を最初から最後まで身を乗り出して瞬きをせずに見る。死ぬ前に芝居を何でも見ることを許されるとしたらそれは迷うことなく少年王者舘の芝居を無限ループで見続けたい。芝居自体が生死も時空をも飛翔した世界であって、この残酷な死と優しい生の断絶と反復で眩暈を覚えているうちに、生も死も無も存在もどうでもよくなるのかもしれない。王者舘の芝居はいつもどの作品も同じことを繰り返してくれるくせに、どれだけ見ても体の中に吸収しきれないもどかしさ。新作のはずなのに旧作のコラージュのようにも見える、天野天街脳内世界のあまりにもな緻密なる演劇構築。溢れるざわざわ感は脳内世界だけではなくて、手足や指先の触感にまで届いてしまう。
全編がクライマックスかのような言語の繋がりと反復は、大学ノートに綴られた毎度の言葉繋りをメクるメクルメくイメージの洪水としてクライマックスを迎えてしまう。
王者舘の公演は夏が似合う。蝉の音。パウダーと線香の香り。そして死者の囁き。公演名と劇場とそこへ行くまでの街なみを朧げに思い出すのだけど、どれもがきちんと結び繋がらない。何年か前に神楽坂の小屋へ辿り着くまでに迷子になってしまい初日に見たら公演時間が1時間もなくて三日続けて観に行ったら毎日中身が少しずつ違っていた「絶対・相対 キットアイタイ」を思い出した。
世界中の人に少年王者舘を見せてあげたいと思うけど、東京では10年前と同じスズナリの公演を繰り返すだけで見る人が増えないのが不思議。劇場には白髪や禿度も高くて心やすまるのだけど平凡な会社員やOL風情は見当たらない。みんな大人になるとどこかへ消えてしまうのかもしれない。では、わたしは少年王者舘にどうして捕まって離れくなってしまったのだろうと不安にもなる。同じ劇団を見続けると、劇団員の入れ替わりを見続けることになって寂しい。水谷ノブと夕沈だけは、もう永遠劇団員として舞台にあがり続けてほしい。水谷ノブの芝居はかつてないほどキレにキレて隅から隅までオレ光線を発し、夕沈はだんだん人間離れした見た事がないような生き物になっていた。どこかへ行かないでと願いつつ。