絵を捨てる

Shipbuilding2006-08-22

実家に行って片づけをしていると、親が納戸にしまっていた小・中学生の時に書いた自分の絵を発見。画用紙の後ろには私の名前とクラス名が今よりも遙かに上手い字で書いてあった。いくつかの水彩やエッチングの作品は各地を回った痕跡として、画鋲の穴がいくつも空いていたり、いろいろな筆跡で県名や学校名が書かれてあった。それは今となっては消滅しまった絵の才能を示していたというよりも、子供の時こそわたしは大人が喜ぶ絵を描く技術にたけていたのだ。そしてそれこそ今のわたしに最も必要な技のはず。ただ何の努力もせずに大人が喜ぶことを嗅覚でかぎとって表現をすることが自分は出来るのだと信じてしまったのは、多少は生き延びる足しになったのかもしれない。しかしそれが全くの勘違いで実のところ中身が空っぽなのだと気づくのが遅れてしまったとしても、それは自業自得ってもんだ。なんてことを0.5秒くらい考えて、そんな絵達を燃やして感傷に浸れる庭ではないので画用紙は畳み、キャンパスは木枠から布を外して新聞ゴミと一緒にしておいた。昔の自分との3秒くらいの邂逅。新聞ゴミを出す力のない親のために近所の人が捨ててくれる。最近は犬の散歩も近所の人がしてくれるらしい。と、そんな近所の人たちに好かれたり子供の絵を気づかれないようにしまっておくことまでできる親の大人ブリに感心をする。わたしは家族というものにうまく入れなかったけど、というか友達一人も作れやしなかったのではないか。という反省も横に置き毎週親のところを訪れては、残り少なくなった三人と一匹のピースがはまった木枠のような物をイメージする。そして一つの木片が腐ったり欠けたりすると、他の木片にも影響が出てしまうことを、そんなイメージで理解することができた。まあ、しかし何時かはわからないけどもそれほど遠くない先に何も無くなってしまうというのは、なんとなく落ち着く気持ちになれる。