あるアルトマンの死

ポレポレ東中野で異端の美術家たる大浦信行が作って針生一郎やら重信メイやら鶴見俊輔らが出演している「9.11-8.15 日本心中」を観て、わたしはドキュメンタリーの観方がわからないというか。その作り物ではないことになっているはずの作り物に居心地が悪くなる。だからこそ、ロバート・アルトマンの「今宵、フィッツジェラルド劇場で」の作り物のリアルさがとても心地よかった。アルトマンが去年亡くなったことで、わたしが映画監督目当てで観る映画は、これで生きている人は誰もいなくなってしまった。正直なところ、アルトマンの代表作は70年代に作られたものが全てなのかもしれない。それでも不遇な80年代があって、そこからまた90年代には昔の群像劇作を奇妙な方法論で試み直してくれたのは嬉しかった。
平日の昼間の映画館のアルトマン映画なのだから、誰もいない映画館を想像したところ、どういうわけか映画館は満員だった。そして観客の95%くらいが60歳を越えた夫婦なのだ。老人の友か何かの宗教雑誌に紹介されたのか、わからないのだけど。もしかしたら、最近の平日昼間の映画館はこういう混み方をしているのだろうか。しかし、当然のように映画がはじまって10分くらいで、そこかしこの頭がこっくりこっくり動き出す。それでも隣に座った年配の女性が映画のステージで歌われる曲が終わる度に小さく拍手をしているのがとても嬉しかった。今回のアルトマンの映画は、そこかしこにアルトマン的な刺激だらけなのだけど、いつにも増して物語としてのドラマチックさは、あまりない。ひたすら楽しむべきは、そこで起こっていることと、それを作っていることの心地よいねじれ具合なのだ。そして、これがアルトマンの遺作であるという映画自体と本来全く関係がないことに、やはり心を注いでしまいオープニングからエンドロールの端から端までが、大好きな人の最後の手紙を読んでいる気にさせてしまう。そして、いつのまにかすっかり痩せていたアルトマンの写真を帰り際の劇場でみて、また少しだけ寂しくなった。
あと、「ドリームガールズ」を観ては、菊地凛子アカデミー賞を取れなくてよかったというか、ジェニファー・ハドソンは主演だったのでは?とか。ハリウッド映画は、隅から隅まで照明も音響も衣装も色彩も間違いがないわ。とか。日本映画は正しいビジネスのシステムになっていないのだなあ。とか。日本映画は個人映画はあっても、システムとしての映画は作れてないなあ。とか。いや、だけど日本のテレビアニメは、システムとして世界に通用する希有なケースなのかも。だって「ケロロ軍曹」なんかは、本当に音楽や色彩が計算されていて、時間とともに背景やキャラクタの色さえも微妙に変わっているくらいなんだから。とか。食べ放題のお店は二度くらい死線をさ迷ったしわたしには危険。わたしには満腹神経がないのよね。とか本当は全く関心がないことを1秒くらい考えてみる。
まだ生きている人でわたしが好きな人を思い出してみる。とにかく今月、わたしは行ったことがない場所へ出かけて桜を見るのだ。