わたしは言葉である

わたしが23番目くらいに好きな作家であるらしい片岡義男は、たぶん最近そんなことを言っている。と、現代口語演劇とモテ囃され続けてここ数年の五反田団前田司郎やらチェルフィッチュ岡田利規やらポツドール三浦大輔らの舞台を見たり文書を読む度に、そんな片岡義男の古さを思い出すのです。彼はこのどこまでも曖昧になっていく日本語を。個の確立がなくなっていく日本語を嘆き、そしてそれこそ日本社会の危機であると真剣に熱く語っている。もちろん、彼がそんな今の日本語をどう嘆こうが、寧ろ今の日本の作家達は壊れて曖昧に使われているままの言葉をそのままどれだけ再現できるかという方向に向かっていて、それはそれだけである面白さを与えてくれる。だけど、それは例えば舞台であれば王子小劇場やこまばアゴラで初めて観たときに感じることができるだけで、繰り返して接してしまうと、会話のリアルさという没個性が面白くなくなる。いくら性器が出ても小便をし続けても、舞台の上の人たちがみな、電車の中から聞こえたかもしれない言葉を話し続けられるというのは、全く面白くない。と、そんなことを比べて感じるわけでもなく。「日本語の外へ」(ISBN:4480816003)以来、日本語について怒り続ける片岡義男の文書を読むとわたしは少しだけ勇気が出るのは、ただ今の日本語と日本社会に怒っている片岡義男が好きなのだ。