妄想するにもほどがある

まだ坦々麺を食べて濡れた頭が乾かないまま「恋愛睡眠のすすめ」を見に乙女で満員の映画館へ入った。日本語として「睡眠恋愛」が普通なのではないだろうか。それを逆にした拘りに意味があったのかしら。原題の直訳「睡眠科学」はワコールが商標登録しているから使えないのかしら。とガエル・ガルシア・ベルナルが鍋をかきまわしている間だけ考えた。ミシェル・ゴンドリーがステファンは自分自身であると言うだけに、かなり濃い男子妄想映画だった。おまけに今回は脚本もチャーリー・カウフマンを入れないで、ゴンドリーひとりで書いたことからか個人映画の風情もある。だけどスチールでよく使われている白馬に二人で乗る場面から感じるロマンチック映画とはちょっと違って、お洒落な恋愛妄想というでなくヘタレな生活全てを幼児的妄想でくるんでいたところが可愛いというところ。わたしには何といっても、いつもメキシコ風味の危ない香りをむんむんさせていた彼が、情けない顔や妄想にふける顔を見せて半分くらいの年齢に見えたことが嬉しい。あの酔っぱらった情けなさ顔は演技というより本気と思いたい。そして、ぐだぐたと流れてしまう物語の中でなんといってもセットの凝った可愛さは卑怯なくらい。会社の後ろの窓から見えるダンボールの街は、全く理由がわからないけどダンボール素材ではダメで最後まできちんと使ったトイレットペーパーの芯を2年間かけて集めて2ヶ月かけて山小屋で撮影したのだとか。どうして山小屋なのかとそっちにもあっちにも疑問を感じつつ。彼の妄想がうらやましかった。ささやき声が忘れられないシャルロット・ゲンズブールへの恋妄想だけでなく、リチャード・ギア似の同僚らとの仕事ぶりにも現実と空想が入り交じる場面もとても素敵だった。最近はお笑いのチュートリアルブラックマヨネーズの妄想ネタや小説のジュディ・バドニッツエイミー・ベンダーの妄想ぶりがツボだったので「妄想ブーム」と2007年のわたしの春には名札をつけてぶらさげよう。
そういえば、わたしも妄想ばかりしていた時があったはずだ。仕事が学生アルバイトのときは、働きながら仕事中にアルパカが隣にいる妄想をよくしていたのに、大人になって会社員になったところで愛しい動物達にわたしの頭の中で会うことがなくなっていた。現実と妄想を混同することがいいことななのかどうかはわからないけど。妄想少年であったわたしは、今よりなんとなく生活を楽しんでいたことは覚えている。それじゃあ、また今からわたしは妄想することにしましょう。と決心をしたわたしは、部屋を片づけましょう。自分だけの妄想を広げるために、自分の部屋を自分らしくしてみましょう。部屋をきれいにするために衣替えをしましょう。と今日の最初に書いた結論になったのだ。とりあえず、わたしの部屋にハンモックをかけることがこの夏までのとりあえずの目標。