ミルクパンから塩ぶたまんまでの日

Shipbuilding2008-01-14

レストランから父親の誕生祝いのカードが届いた。当の父親はアルツハイマーで施設に入所しているので、そんな誕生日特別メニューを食べるため、実家の母と一緒にパン屋のレストランへコース料理を食べに出かけた。もう、父もアルツハイマーと言われてから3年も生き永らえている。薬のおかげでアルツハイマーの進行は驚くべき緩やかな速度になったのだが、昨年施設に入所してアリセプトの投与が出来なくなってから、また人間らしくしていられない速度が速まっていた。特に昨年の秋頃からは、父親の感情は理由なき怒りと悲しみだけが残されてるようだった。しかし、それを眺める方もたいていのことを日常の一部として慣れてきていた。
パン屋のレストランの殆どのテーブルには、蝋燭台か、薔薇の一輪挿しが置いてある。ここのレストンで食事をする限りなく全ての人たちは、店から誕生日か結婚記念日のお祝いカードを貰って予約をした人たちだった。そこかしこで、幸せな会話とプレゼントの交換が行われる中で、わたしは一人で食べることに夢中になっていた。パン屋のレストランなだけに、コース料理では焼きたてのパンが食べ放題だった。しかも、5分もたたないうちに大きなバスケットを抱えた店員が、ほほ笑みながら次から次へ新しいパンの説明をしながらパンのおかわりをすすめる。もとより、食事が細い母は店員から父へのお祝いのマグカップを貰うと、何も食べられなくなり、わたしが一人で二人分のメインとパンを食べ続けた。テーブルにあったアンケート用紙にパンの持ってきた回数を正の字で書いていたら、食事をしている間にミルクパンから合計9回のパンのお代わりとほほ笑みがわれわれのテーブルに乗せられた。わたしのパン皿には16種類のパンと24個のパンが乗り、母の皿の上に乗った22個も、そのままわたしの皿の上に乗せられた。パンの数が20個を超えたあたりで、今日の自分の胃袋に底がないかのような小さな挑戦魂すら覚えた。30個を超えたあたりで、母が顔をあげて、食べ過ぎを止められるかと思ったが、父親も昔はパンが好きだったとだけ話して溜息をついて、メインの鮭と帆立と野菜が一緒に白いクリームにごちゃごちゃ乗った皿をわたしに押し付けてきた。40個を超えたところで、デザートも食べ終わりコーヒーも飲み終わっていた。テーブルに何もなくなったところでも、ほほ笑みながらパンのお代わりをすすめる店員に申し訳なくなって、最後のオニオンパンは、水だけで食べた。
父の入所している施設の入り口で母は、自販機で缶コーヒーを買って、レストランのパンをわたしに嬉しそうに見せた。病室を開けると、父は移動式の便座に下半身を出したまま座っていた。その便の匂いがする病室で、怒鳴り声やなき声を出しながら、全くかみ合わない会話が三人家族の間では進んだ。この日、父親が繰り返して言った「ここは刑務所だ。俺は何もかも盗まれている。だから、今は靴を抱いて寝るんだ」というのは、何かしら正しい父の今の心情なのかもしれない。
母はついに下半身を出したまま便器に座ったままの姿勢を直そうとうしない父に缶コーヒを飲ませることに成功したが、パンを食べさせることには諦めたのか、泣きながら自分で食べていた。わたしの名前を思い出せない父から最後に「おれはいい人だったのか?」と訊かれたが、何を言っても会話にならないので何も答えないで部屋を出た。
実家に戻ってから、犬の散歩をした。途中にコンビニで塩豚まんと餡まんを買って歩きながら食べた。餡まんを食べて、塩ぶたまんをたべているところで、気持ちが悪くなった。気持ちが悪くなったのは、食べ過ぎたせいだけではないような気がした。塩ぶたまんの半分を犬にあげると、犬はきれいに塩ぶたまんを食べて、嬉しそうにわたしの顔を見上げた。