みすぎた

Shipbuilding2008-03-09

先週は仕事を休んで殆ど毎日舞台を見た。五反田団チェルフィッチュサイモン・マクバーニーの「春琴」も西巣鴨で「溺れる男」も見た。映画館へも行き、舞台のあとにレイトショウにも行った。そのついでに、母の病院と猫の病院と自分の病院へ行っては、みんなが、かなり細い境界線を縦に並んで歩いているのだと改めて自覚した。順序を間違えないことだ。順序さえ間違えなければ、きっとよくある物語なのだと思う。
それから父の施設に行って、父親が怒りと悲しみを抱えたままの状態を傍観する。そのあとで、ケアマネの方から「人は二度童になる。一度目の童は知識をえて行くが、二度目の童では知を失って純粋になる。」みたいな話を聞かされても、朝からの頭痛が酷くなるだけだった。帰りがけに、夜勤で帰るところだというよく知っている介護の女性から、おにぎりをもらう。
それは、両手を使って食べるくらいの大きさで、強く握られたおにぎりだった。サランラップでくるまれたおにぎりの中にはおおきな鮭が入っていた。それは人生でベスト3に入る底ぬけに美味しいおにぎりだった。たしかに昨日の夜から何も食べていなかったのだけど。わたしは、美味しい美味しいと何度も頷きながらガツガツたべた。ああ、チェーホフの舞台よりも感動させてしまうおにぎりというものがあるのだな。と惚けて、わたしはお茶ものまずにサランラップについた米をひとつぶも残さずに食べた。テレビではあの人が集団から遅れていた。
この人の「あきらめなければ夢は叶うといことを伝えたいために走る」というメッセージとそれを伝えるメディアや受け取る人達の関係は、携帯小説の不幸イベントのあとに幸福がまっているという物語を書く人とそれを提供するシステムとそれを信仰のように読む人たちと同じだ。人はむやみに感動したがりすぎなのだ。わたしは夢はかなわないことを知っているけどあきらめられないから、毎朝走っているのだ。と、これはまた全くただ哀れなだけの話だ。