ポツドール 顔よ

生まれつきわたしは外見に不自由な人なので。もう顔のこととか不細工な男の恋愛観とかセックス観とかを小劇場すごろくそのまんまに本多劇場まで成り上がってきたポツドールというか三浦大輔に語られたくないですから。本当は観たくないんですからねと岡村靖幸を聴きながら半身で座っていたものの。開演前から尻尾をお尻に入れてひれ伏してしまう。今回もすごいことになっていた田中敏恵さんの舞台美術。王子小劇場で最初にポツドールを観たときから、気持ち悪くなるくらいなリアルさというのは、台詞や演技からくるのではなくて、あの空間恐怖症というくらい何もかもを詰め込んだ舞台美術からだったのかもしれない。そして本多劇場では、舞台の空間を目一杯使った4部屋の構造にとりあえず驚く。アルトマンが泣いて喜びそうな会話が同時に進む様もとても見事。さらに台詞が被るだけでなくて、その被りかたが時にシンクロし時に掛け合いとなって、またそこの重なりによって別のドラマが作られていた。どの部屋でも日時を教えるテレビが映り続け、相手を求める携帯が鳴り続け、オナニーやセックスや暴力が行われるのだけど。打ち消しあい、重なり合う台詞や音が、真面目で几帳面に美しい。それはわたしが言ったかもしれないとか言われたかもしれない聞きたくない言葉のやりとりは、本多でも「激情」より数段上手く伝わっていた。最近、いろいろなところで会っている気がする内田滋米村亮太朗のラブシーンは特別に美しい。終わってみれば、全てのカップルたちが結果的には美しいラブシーンと愛が描かれたことになっていることに気づく。傷つけあって結ばれるハッピーエンド。と思いきや。
ラストの内田滋であったはずの妻の顔が変わっていたところが、舞台を観た人達の感想の「妄想落ち。夢落ち」という説明を読んで自分の頭の不自由さに気づく。全くそんな風に考えられなかった。違う女性と結婚したのか殴られて顔が変わったのかしら、なんて想像力が貧困な。たしかに、妄想と解釈する方が冒頭ときれいに繋がって筋が通る。だとすると、全てはそうだったのではなくて、彼女がそうであって欲しいと望む出来事であったと括ったのか。彼女自身が、人は顔だけではないと言いながら、顔のいい男とセックスしたいのと訴えるのは、そうであったのではなくて、そうであってほしいということで、それとそれは反対語ではなくて。。というオチは昔によくやっていた前半の芝居を後半でひっくり返すのを一瞬でやってしまった。ということなのでしょうか。さらにわからないのが、ちらしを見ると、内田さんの役名が丁寧に「橋本智子」となっていて、あとは米村さん以外の役名には下の名前だけなのは、どうでもよかったからなのか。あるいは、あの彼は夫ですらなかったのでしょうか。そして二階アパートの彼らも兄弟ではなかったかもしれないし、つきあっていたのは兄の方かもしれないのでしょうか。
とまあ、見たくないことや聞きたくないことを引っ張り出してしまう力技は、もはや大御所の域。本多劇場を通過して小劇場すごろくの次のコマに進んでいく劇団を見たのは大人計画以来のような気がする。