こーはいよ

Shipbuilding2008-05-02

なんとなくとつぜんと4.5年ぶりにコーハイに会う。本来は何か辛い出来事を聞きましょう。という会合の目的があったものの、どこで会うとかどの店で何を食べようかねなどという方向に懸命になって目的を逸っしているわたしがいた。VQ1005で写真をご満悦に撮りそれがまたこんな風に見事に失敗し汗をたくさんかき釜飯を食べたり甘い物を食べたり飲んだり、そして咳きこみつつお年寄で賑わう谷根千界隈を粛々と回る。
コーハイが好きな芝居や小説の話にセンパイの威厳を示そうとするが、コーハイの方が断然詳しい。コーハイのくせに何か難しいことを語る。そういえば、わたしは芝居や小説について、きちんと人と話したことがなかった。まったく言語化できないわたしは、低レベルな自分のくだらなさを語る。そして、それはセンパイが悪い。と正論を言われてしまう。おまけに語ってもいないし隠していたはずのわたしの俗っぽさについて指摘されてしまう。あまりの正しさに笑うしかない。コーハイもまた見事に笑っているので、なんとなく差し引きプラス感。普段聞かれないことばかり聞かれ、使わない頭を無駄な力を入れてクルクル回してみる。喜怒哀楽がないわたしはおよそ無表情だったのかもしれないが、それは結構楽しいことであった。
コーハイも、およそ楽しげに笑っていた。ただそれはわたしが全く登場しない場面で、幸福な出来事が悲しい出来事に変貌してしまったその瞬間をコーハイは懐かしがっていただけなのかもしれないけど。その無邪気さ満点の笑顔をみて、わたしはコーハイの生き方の素直さが羨ましくて机の下で◎をつけた。
それでも話し足りないのかと六本木の森美術館まで引き回す。森美術館ターナー展もよかったのかもしれないけど、わたしはなにひとつ解説できずに、椅子を見つける度に腰掛けては休息をとるだけだった。
切断された牛の親子や電球が点灯したり消えたりするだけの部屋や60分間動かずひたすら我慢する警察官たちやキートンのように家が倒れても無表情の人や美術館の中を歩き回るクマのヌイグルミ。というのは面白いといえば、面白い。だけど、そこに哲学的美術史的あるいは政治社会的意味が背景にあるなんてことは解説を読まないとわかりやしない。いな。読んでもまったく納得がいかない。わたしが美術館巡りや現代美術が単純に好きなのは、あのやったもん勝ちのわかりやすい面白さやエロさや可愛さや物語っぽさに限られているのだ。
いつのまにか森美術館の屋上が解放されていて、屋上にてだらだらと話していたことは、ターナー展のあれこれやスカイザバスハウスの奥原しんこや屋上から見えたくすんだ夕焼けと渾然とした印象になっている。しかし、コーハイが語るその評論家や小説家の大部分を、本当はわたしは名前を知っているだけで難しくて読めていないことは内緒だ。東京タワーを見ながら誰かの小説は、ただのマザコン男の最低な小説だ。という点だけは意見の一致をみて、盛り上がれる。
コーハイから聞いたいろいろなことをすでに忘れているので帰りの電車でメールをしてあれやこれは何だったのかと聞いてみる。ついでに、きみの名前は何ていうのかと聞いてしまう。さらについでに、森美術館の屋上で撮影したきみの写真を貼付する。送り終わってからしげしげとその写真を眺めると、楽しそうなのか悲しそうなのか何を考えているのかも全くわからないくらいきみの見事で不思議な笑顔が写っていた。
まあそれは、わたしの撮り方が見事だったからに違いない。きみにいろいろと見透かされながらも、まだ知られていないはずの、わたしのさらなるくだらなさやずるさを隠し通しきりたい。そして、油断をすると次に会うのは、10年くらい先になってしまうかもしれないところを、ごまかして、もう少し早めに再会しよう。そのときは、今度こそきみが話したことを忘れないようにノートを持っていこう。