中国語講座のローラ・チャンにも彼女を真似する小池栄子にもなりたい

Shipbuilding2008-05-20

朝顔の鉢に釜飯の釜を使ってんだからねってあたりを写真つきで80年生まれの同僚の主婦に自慢すると、それは鉢が小さすぎて枯れてしまうと物知り顔で言われたので慌てて鉢を移す。冬に鉢で買った薔薇も猫に食べられながらまだ花を咲かせ続けてている。猫攻撃と雨風に気を使いながら毎日の手入れを忘れない。結構まめなわたしだ。男の甲斐性はまめさだ。という方向で夜中にこんなものを書いているよ。
父親の施設に行く。施設が酷くて惨めだから一緒に帰ろうと泣かれる。しばらくすると落ち着くかと思うが、次第に感情が激しくなり父と施設の職員とも揉み合いになる。一日いても父の感情も職員の感情も険悪なまま、家に帰ろうと泣き続ける父を残して帰る。母には父の様子を話せず、やたらにわたしの顔を舐めてくる犬を強く抱きしめる。
中国語講座が気づくと全く聞き取れない。小池栄子もついさっきまで村上龍と「カンブリア宮殿」に出ていたと思ったら、チャンネルを変えるとすぐに中国語を話しているのがシャク。悔しくてラヂオの中国語講座も始める。VQ1005の写真は数年前に頂いたラジオ。AMはあまりよく聞こえない。ラジオを貰った人からも今はあまりよく思われていない。
もしそれが、本当にかなうのなら、友よ、友よ、中国はあまりに遠い。

「少林少女」は不思議なくらい面白くない映画だった。
ボブ・ディランの「アイム・ノット・ゼア」は、眩く煌めく映画。耳に蛸ができるくらい聞かれた、無人島にもっていく一枚とか死ぬ前に聞く一枚は?という質問には、わたしはボブ・ディランだったら何でもと答える。一時期は本人よりも聴きこんでいたのではないか。というくらいディランかぶれ。だから思えるわけではないだろうけど。音楽伝承の映画として正統的。それでいて泥臭く神秘的な演出も気持ち良い。ディラン以外の歌手の唄も見事でそれが気になってサントラを買う。
阿佐ケ谷スパイダースは、いつもオリジナルを感じない舞台だったど、今回「失われた時間を求めて」はそれがいつにもまして空疎。ただ、舞台はお金と時間をかけてセットも美術も衣装も作り込まれていて統一された色彩はきれい。鴻上尚史の旗揚げ公演「グローブ・ジャングル」も、想像通りに面白くない。かつては、あんなに面白かったと思ったこちら側に問題があったのか。あるいは鴻上尚史は何も変わっていないのかもしれない。とよくわからなくなるけど。
満員にならなかったスズナリで観た風琴工房「hg」はこんな真剣で挑発的な舞台だと思わなかっただけに衝撃。一部から二部への緊迫から弛緩への展開だけでくらくらする。しかしその二部こそ、なだらかな障がい者の芝居自体を舞台で批判するという挑発。かねてより健常者の障がい者芝居に感じていたことを直球で怒ってくれたのだが。また、それに見事に水俣病患者の芝居で役者が答える場面は、何に対して胸が苦しくなっていくのかわからなくなる。舞台の上でなんで演劇なのかという投げ掛けられた問いは、これこそ演劇でなければいけないのだという答えを、終演後ほとんどの人がそのままアンケートを丁寧に書き続けていた光景が示していた。
自分で偶然みつけた作家は特別なものになるけど、また人から教わった作家もその人のこととあわせて記憶に残る。
となりのこども そのぬくもりはきえない Lemon Tea 
小説では岩瀬成子。この人のことを全く知らなかった自分が残念。これから追いかけて読んでいきます。いつかわたしの岩瀬成子特集を書きたい。音楽はNomad。この歌い方と声にわたしは弱い。
カレーを作るときに野菜を焼くと美味しいから煮物を作る前にも野菜を焼いたらどうかと、焼いて焦げめを作ってから煮ると大正解。特に生の大根を焼いてから煮ると美味しい。と80年生まれの主婦に自慢すると、特許を取った方がいいと感心してもらえる。男の甲斐性とは、地位やお金やセックスの回数や優しい言葉だけではないのだ。大根を焼いて母の隣の家に持っていこうという発想と親切心だ。小さいな、わたしってば。
愛が無くなって親切だけが残った。みたいなことを言ったのはヴォネガットだったけど。愛とかいうのは対象がいたときの幻でしかなくて、親切は生まれつきの才能なのだ。と、自分を無理矢理讚えてみるが、大根の話とはもはや何も関係がない。
そして今朝の風で朝顔の茎が折れていた。