コンドームとジャック・ラカンと直島

Shipbuilding2008-07-24

コンドームが公園に捨てられているというのは、ここでそういう行為があったんだっつ。てな、そんな行為の獣さより公園できちんと避妊具をつけるという品に可愛さを感じる。って避妊具をつけないという男にわたしは未だかつて出会ったことがないが「彼が避妊具をつけない」という話はよく聞かされる。きっとみんな同じ男に違いない。
そもそも避妊具をつけない男は最低だと言っていた女性からして、つけないことを惚気るというのはどういうことなのか。男が付けないのではなくて、女が自己は主体ではないことを主張しながら避妊しないことを肯定しているのだ。ぷいぷい。
コンドームを見つけた噴水に近づいたのは、もちろんコンドームを探しに行ったのではなくて、小さな噴水に虹が出来ていたから。前に屋久島で見た虹や中国の石林で上から見た虹もきれいだったけど、写真にはうまく撮れなかった。ただ、きれいな虹を見ると世界中の誰もが虹を向いて口を開けざるをえない。虹やオーロラの発生理由は科学的な説明もあるけど、それは観察した後の理由であって、どうしてあの美しさとなって発生するのかという点では、わたしは人間原理主義になる。人が見て美しいと思う「ために」ある種の物質たちは存在するのだ。
とだらだら書きながら思考が中国文法的というかレヴィ=ストロース的になっている気分に無理矢理浸る。ついでにロラン・バルトが訪れた地が日本でなく中国であれば、中国版「表象の帝国(記号の国)」を著すことになって、もう少し世界平和に貢献することができただろうに。と適当なことをつけ足したくなる。

うちの猫はよく鏡をのぞいて自分の姿を写し込んでは悦に浸っている。最初は鏡を見て驚いた彼女も今は、自己の認識ができたのだねと考えるのと同時にジャック・ラカン的には「鏡に映った自分を見たことで君の自己は永遠に失われてしまったのだね」とか考える。
春からひたすら読む本は中国語と現代思想だとか構造主義とかいう本ばかりだったのだけど、わたしにとってこれらに書かれていた自己や真実への探求よりも、その文体から醸し出されるスタイルがとても刺激的で面白かった。それは、蓮實重彦のテキストの内容は何もなくて文体が全てなのよと感じるのと同じことなのか。ラカンの「真の自己は鏡像段階において永遠に失われる」というフレーズのなんと文学的なことか。自己肯定だとか、スピリチュアルな本たちを求める人たちも、実は現代思想本の方が落ち着くのではないかしら。結局のところ、自己も他者もドーナツの穴のようなものであることで安心ができる。

入院している中国の女性がこの前に言った言葉を書いて、直訳してみるとこういことだった。「ひとは一番苦しいときには口に出さない。ひとはいちばん辛いときには泣かない。本当に一番苦しくて辛い時はそれすらできないからだ。ただ静かに時間がたつのをじっと耐えていくだけだ」
この女性の言葉はとてもすてきだ。人は言葉で作られている。逆は不可。というのがわたしが生まれつき考えていることだし、ロラン=バルトやジャック・ラカンさんもそんなことを言っていた。見舞いに行く度に、双子たちから母親の手を握らされる。母親が生きている限りは、わたしは双子に会って中国語を話したり、彼女達や猫達の絵を描くことができるのだろう。

明日の今頃は直島のベネッセハウスでごろごろしながら中国語の勉強をしているはず。直島への旅は二度目。前に行ったときはいろいろなプロジェクトが立ち上がったばかりだった。でも、実際は諸々なアートよりもベネッセハウスや偶然みつけた神社から眺めた瀬戸内海の静かな景色が印象的で、いまでも肌にその感触が残っている。