直島とダグラス・サークとハリーポッターと猫と

Shipbuilding2008-07-25

双子とか癌とかサッカーとか点滴とか動けないくらい混んでいた朝顔市をかいくぐりながら覚えている観たものたち。

横浜で見たデボラ・コルカー・カンパニー『ルート』は正味1時間という短さが良かった。人間観覧車のちらしに惹かれて見たのだけど、人が機械の中に入るというのは何故か性的な意味でも魅力がある。しかし上演時間が短い。ピナ・バウシュであればまだプロローグの最中だよ。ついでにわたしがピナ・バウシュとデボラ・コルカーに、日本の舞台ではエンヤとカノンの音楽を背景に踊るとお笑いになってしまうと教えてあげたくなる。前田司郎の「混じりあうこと、消えること」もPPPの倉持裕の「審判員は来なかった」も面白かった。彼らの初期の作品を観て感じた「この人たちは世界の仕組みを描いているのだ」みたいな感覚も底にはまだ僅かに感じる。それ以上に単純に芝居が面白くなって商売になっていて驚く。エミリー・ウングワレーは知っているはずの色の組み合わせや筆跡がはじめてその色を見たときのような驚きがあったり。とビデオに映った彼女の姿と手の感触が入院している中国人の女性とそっくりだとか勝手にいろいろなことを重ねて感動したのに対して大岩オスカールと彼のビデオや町田久美と西村画廊のメッセージはビジネスを上手く行っていますというメッセージを隠さない美術。もう少し商売ぶりを隠してくれればいいのにと思うのはこちらの幻想の問題なのだろう。舞台の人たちがよくビジネスいう言葉を言う度に一歩下ってしまうのも仕事が上手くできなかったわたしの方に問題があるのだろう。エミール・クストリッツァ&ノースモーキングオーケストラをJCBホールで聴いた。この会場に入るのもはじめてだけど。彼らも初来日のはず。なのにこの異常な盛り上がりは何なのだろう。見たこともないような洋服や髪形をした同じ歳風の男どもが客席に大勢。寝癖という髪形しかしたことがないのはわたしだ。最後まで立ち上がらなかったのもわたしを入れて7人くらいだった。最初から全開で盛り上がれる舞台の上やこちら側の人たちが羨ましい。とかいいつつ野音で聞いた渋さ知らズらのワールドビートではしぼるとジョッキで飲めるくらい汗をかきながらその瞬間は楽しんでいたらしいわたしのことも羨ましい。と満員の映画館で見直すことができたダグラス・サークのあまりにあまりな人工的な映像美学に体が溶けそうになる。学生のころ見たダグラス・サークの映像もドラマも日本人の発想にはありえない。と感じたありえなさは今みても感じる。全く感触の違う映画「JUNO」の子どもを産んだあとの決着の仕方にしても日本人にはありえないし。旅行へ行く前なのに読み通してしまった「ハリー・ポッターと死の秘宝」の決着も子ども向けのファンタジーとしては日本ではこうはできない。
と、そんなことに関係なく猫の毛がたくさん脱ける。人や猫とのコミュニケーションが下手なわたしも猫のブラッシングだけは天才やも?と思うくらいランニング途中に会う野良の暴れ猫をもうっとりさせてしまう。そんなブラッシングのプロ(わたし)が択んだ猫ブラシは7月5日の写真に。手作りをしている方から注文したもの。そして一回のブラッシングでこのくらいとれてこれが一日何度ブラシをしてもしても同じだけ毛が取れる。取ったそばから毛が生えてくるのかもしれない。疲れてブラシをやめると「あなた、もうやらないの?」と、後ろ向きでこちらを見上げる目線がとてもセクシイで哀しい。

双子から教わった今日の中国の言葉「子どもは母親が見にくくてもいやがらない。犬は家が貧しくてもいやがらない」。「だけど、今は違うの」は、双子の姉ファンファンの感想。もう出かけなくちゃ。