ヴィタール もちろん内容にふれまくって

この映画は身も蓋も無い言い方をすると、シンプルな純愛映画だった。わたしは塚本晋也監督作品の熱心なファンでないし、むしろ勝手に走って勝手に終わらせてしまう物語に戸惑いを覚えているくらいだったのだけど、こんなにシンプルで美しい映像と物語の映画を見させられたことに驚いてオドロいてそして感動した。
前作「六月の蛇」もまた、夫婦純愛映画と呼べるかもしれないが。今回の映画は、エロもグロもなく、その解剖映画というイメージから想像できないくらい、きれいな映像で覆われていた。映画が始まると同時に、そういえば、映画で注射の場面になるだけで体をひきつらせ、手術場面が気絶するくらい弱かった自分に気づき、安直にこの映画を見ることにしたことを呪った。しかし、映画は人体の不思議展ほどにも肉体が現されることも無く、むしろ浅野忠信が異常に詳細に描くスケッチの方が人体を饒舌に描写していた。ただ、それでも解剖が映画として物語として必然であったのは、彼の恋人で事故で3年前になくなった彼女が、記憶を失った彼の献体として登場するという設定。そして、それこそ彼女の想いの力が、彼と再び自分の体を捧げることで繋がりあい、彼にとってモデルのkiki演じる吉本郁美を相手にしないという。ええっつ。KIKIでいいじゃないですか。という下世話な心配をする必要もないくらい、彼女と彼が結ばれなければならないことを映画として見事に証明していた。塚本監督の肉体と魂と都市への拘りが、ここでは魂がなにものをも通り越してたどり着いた先が描かれていた。人間の全てを知ることは世界の全てを知ること。などと言う事もできるかもしれないが。実際のところ、そんな生と死とか肉体と魂とか。そんな観念的なことを感じることではなく。バレリーナの柄本奈美演じる涼子の「ひろしい」と呼ぶ、あの笑顔にやられて。沖縄の海辺で踊る体に驚いて。ラストのラストの二人の会話で涙ぐむ。というそういう通俗的な鑑賞方法でよろしいのではないでしょうか。