トニー滝谷

映画「トニー滝谷」は小説「トニー滝谷」の素晴らしい「映画化」だった。本当に小説にとって幸せな映画化だったのではないだろうか。全編これでもかという風に西島秀俊のナレーションがまさしく小説を淡々と読み、坂本龍一のすきまが多いピアノが流れ、広川泰士が白い色調の撮影をして暗闇にパンをすると次の場面に繋がる。台詞よりもナレーションの部分が多かったからか、本当にこれは映画を観ているのだけど、あの村上春樹の言葉と言葉になっていないものまでをもあぶり出そうとしていた。
どうしても、小説の妻の「とりたてて美人でというほどではなかった」と、妻のあとに事務所で採用をする女性の「これといった特徴の無い顔をした」という容姿への説明とはかけ離れた宮沢りえの美しさに見る前に違和感を覚えていた。まあ、宮沢りえが妻と女の二役をすることは、商業的な理由もあったのかもしれないが、ものすごい細かな芝居で、村上春樹の小説でしか響かないような台詞にリアルさを与えて、映画の静かさにきれいな華をあたえていた。
そして、これも微妙だと思っていたイッセー尾形はもしかしたら、トニー滝谷と父親の役を演じていただけでなくて、村上春樹の模写をしていたのかもしれない。ついでに、トニー滝谷の子役もまた、嘘みたいに村上春樹に似ていた。あるいは、フットボールアワー岩尾望に。。
実のところ、短編集「レキシントンの幽霊」も、「トニー滝谷」も村上春樹作品にとって、特別な輝きを放っているものだとは思えない。そして、市川準が映画にしようとしたのは、トニー滝谷の物語ではなかったのだろう。

市川準や、あの映画館にいた人たちにとって、それぞれの村上春樹の読書体験があって、それは必ずしも市川準の映像に、それぞれの村上春樹感を覚えたわけでもなかっただろう。それはまるで映画館の中で、いっせいにみんなで同じ本を読んで好きな想像をしているような空間だった。そして、映画を観ながら昔の村上春樹の言葉を聞いていると、それはどこを切っても村上春樹的世界でできあがっていた。そしてそれは、やはり物語ではなく、言葉と言葉の間にあるものなのだ。
この小説と映画の見せどころである、亡くなった妻の洋服を女が着て泣き出すシーンが控えめな離れたショットであったところが、とても説得力があった。そして、いつもの市川準の映画のように、ひっそりとぷっつりと映画は終わってしまうのだけど。小説の孤独感とはまた違った感触を与えるラストに、ささやかなメッセージを感じた。