ゆれる

Shipbuilding2006-08-05

オダギリジョーをはじめて意識してしまったのは「メゾンドヒミコ」だった。あのフリルのブラウスを触りたい。いや着てみたい。んもう柴咲コウが憎たらしいわ。とかとかもうこの映画については、ひたすらオダギリジョーのいやらしい目の使い方と女なんて所詮みんなゲイだろうとEDであってもオダギリジョーが相手ならしちゃんだよね感しか覚えていない。そして柱の影から雑誌やテレビで盗み見をするオダギリジョーのやりすぎファッションにときめくようになっていた。 西川美和監督の「蛇イチゴ」にしても、ダラダラした葬式とか家族の描写は素敵だったけどあまりに普通の場面で決着をつけようとする強引さがわからなかった。
そう、ただただ「ゆれる」はオダギリジョーのオレはすぐやっちゃうんだからねのセックスシーンを見るためだけに、渋谷くんだりまで出かけたのだった。しかし、映画はびっくりびっくり。香川照之オダギリジョーの演技合戦。その役得もあって、実のところ香川照之の演技ショウでもあった。映画を観て映画よりも一人の男の演技にくぎ付けになってしまったというのは日本映画だと松田優作の「野獣死すべし」しか記憶に無い。というわけで、もうこの映画の兄弟がどうこう。とか橋の上で本当に起こったことがどうこう。とか家族の絆と橋の揺れがとかそんなことは吹っ飛んで、ただただ香川照之を追いかけるだけで満足もし、そしてまた苦しくなる。
香川照之演じるオダギリの兄稔の日常では田舎のガソリンスタンドや古い家の中で静かな生活の描写が確かなだけに、ガソリンスタンドでキレ具合、法廷の独白の不気味さ、面会所でのオダギリジョーを圧倒する対決場面が冴えてくる。映画は刑務所から出所してきた稔を追いかけて走る猛。バスに乗る直前で画面いっぱいに広がる稔の笑顔で終わることによって、また観る者に兄弟のその後の解釈を委ねさせるところが憎い。だけどこの香川照之の顔を全て使った少し奇妙な笑顔が美しすぎた。そしてこの映画で描かれる兄の弟へ巨大な憎しみ全てが美しく反転させられる。そう。憎しみは美しい。憎しみと愛情こそ、あぶないつり橋のゆれなのだ。それは兄弟であれば、一生どちらかの感情をもつしかできないし、そしてそれはどこかでひとつに繋がってしまう同じものなのだ。兄は弟への嫉妬や憧憬からくる憎しみを抱えていた。弟は兄だけが純粋で信じられる者であって女や仕事よりも兄を助けようとするが、面会所で兄から自分のことを愛されていないような言葉を投げられただけで、法廷の証言をひっくり返してしまう。その兄を殺人者へさせてしまった弟の証言は兄への愛を裏切られたことの憎しみでもあって、それと同じだけの兄を自分のものにしたいという愛情であって。。って、ああ。そんな兄弟の愛情の話は実は生涯ひとりっこのわたしにはわかりません。し、ほんとはどうでもいい。写真は、相変わらずの新井浩文さま。いつもこういう役が彼にふられるというか、彼がこういう役を呼ぶといのか、特に7年後の彼がファミレスでオダギリジョーに投げ掛ける視線は死線でしたよ。またここでもオダギリジョーは芝居で負けてしまっているのだけど、ジョーはそんなことは気にしないでよし!
ただ、なんだやっぱり憎しみと愛情って同じだよなあ。あははあ。とか呆けて考えたり、もてない男は一度ふられただけで世界を相手に復讐することができるんだぜっ。どうせ女なんてオダギリジョーに見つめられたら誰でもしちゃうんだから。へっつ。とか。もう心はいつも稔@香川照之の揺れる橋の上ですよ。
そしてこうも思うのです。憎しみと愛情を同じ人に対して持ってしまうことがあって。その大抵は憎しみの方が強くなってしまうのだけど、憎しみだけでは人は安らかになることができなくて。その巨大に膨れ上がった憎しみの様と残り少なくなっていく愛情の様を哀れに思って人は苦しくなったりするのでしょう。と、そういうわけでこの映画の見どころのひとつは「舌をだせよ」でしょうか。ジョーになら言われてみたい。そしていちばん上の写真の場面はたぶん映画にはありませんから。