「フランドル」と「俺は、君のためにこそ死ににいく」

映画「フランドル」の予告編やポスターは美しすぎる。上手すぎる。と、勝手になんか美しい風景に青春とか挫折かと時々ざせつ?みたいに予期していた映画は、全く違っていた。今でもどの場面を思い出しても精液の匂いがする。そんな映画であった。わたしの自信がない記憶力の限りでも、この映画にはいっさい音楽は使われていなかった。ドラマの中だけでなく、エンドロールにも無音という映画は他に記憶がない。そして、音楽の代わりにこの映画には足音が深く記憶に残る。林をさくさく歩いてセックスをして、砂漠をきゅっきゅっ歩いて殺して、ぬかるみをじゅるじゅる歩いて殴って、砂漠ざくざくを歩いて女を犯して復讐に性器を切られて。というような行為が、奇妙な歩く足音とともに行われる。そして唐突に「愛している」みたいに映画は終わって、「え〜」というざわめきが起きて、だから「スパイダーマン」にすればよかったとか「じゃあスパイダーマンを見にいけばいい」とかスパイダーマン戦争を客席に起こしつつも、映画は静かに終わる。そして、ちらしのうしろの「この映画はマグダラのマリアのごとき少女の姿を描いた」という言葉で勝手に、ああ「受胎告知」を見に行かないと。と思ったりしながらも、「俺は、君のためにこそ死ににいく」を見てしまう。映画は普通にひどかった。この映画のエンドロールにB’zを流す。というのも酷い感覚だと思ったが、その背景に実際の戦時中の普通の人たちの写真が流れるところだけは、この映画の唯一の見どころだった。そして、毎年、日本人が日本の戦争映画を、あるいは特攻映画を撮り続けるべきだと思った。ガンダムエヴァやあれやこれやの結局は戦争アニメを作るのであれば、もっと若い人たちが日本の戦争を堂々と描けばいいのにと、うとうとしながら思った。