竹橋から北の丸公園

オペラシティで開催されている池田満寿男展を見に行った人で、同じ入場料金に含まれるというだけの理由で、ついでにわずかなスペースにおいてある名知聡子のたった4枚の絵を見てしまったら、みんながみんなこの巨大な絵の衝撃にやられてしまうのではないだろうか。すべて巨大な自画像。息苦しくなるセンチメンタリズムとナルシズムと多幸感。今回の展示にはなかった「美しい結末」では、廃屋の壁3面と床まで使って描き「私の絵を見にくる人が私に包まれて欲しいの」と言い放ち、自画像の前で手紙を読み上げるパフォーマンスも行うという姿が眩しすぎる。

東京国立近代美術館の「現代美術にみる自己と他者」では、絵画の前にある「自己と他者」についての哲学入門のような解説文書がいちいち煩いけど、ほどほどのスペースに置かれた有名どころの絵や写真やビデオはとても楽しい。わたしという自己は最初から存在していたのではなくて、あとから他者によって形づけられたとするならば、「自己」とは、「他者」とは。という「他者」という言葉で目を窓に移すと皇居の周りを大勢の人たちが走っている。去年の秋頃、わたしは時間があってもなくても朝と昼と夜中までも走っていた。皇居の周りのように、たくさんの他人と走るというのは、あの秋に自分が走りたい理由とは違って違和感を覚えた。大勢と一緒に走るというのは、肉体的には楽だけど精神的には苦しくなる。そんなランニング感を現代美術用語で無意味に表現をすると、「価値観が多様化していきネットの情報技術に増幅された現代において、自己と他者の境界線が複雑になったところで自己の特定を図るため、わたしは走った」ということもなく。ただ何かにつけ過剰になりやすいだけなのだ。今はまた寒いからねという理由で走る時間を読むことに代えて、満員電車の中でも満員トイレの中でも満員食堂の中でも、そして家に帰る途中にあるネットカフェでその日が終わる時間まで漫画や自分の文庫本を読むという生活は、何も一切考えていない。ただ自分の過剰さを落ち着かせているだけだ。
「現代では人々の自己が危うくなるということは、アイデンティの問題ではなく他者とのコミュニケーションの問題である」というような、美術にとってどうでもいいことに思える解説が続いていた。わたしにとっての一番の見どころは高嶺格の「God Bless America」。長いし音楽つきだし。横浜トリエンナーレでもそうであったように、大勢の中からひとつを選ぶとたいていは、同じひとつにたどりついてしまう。これは小学生のときに私が隣の女の子に発表した二大理論「人類史上全ての時代の地球上の全ての人から自分にあう相手を見つけようとすると、何度記憶喪失になってやり直しても絶対いつも同じ相手になるんだよ」の赤い糸原論と「ものすごい量が多いことをオニというんだよ」の前者なのだけど、そんな戯言は2008年になっても未だ証明されていないが後者はおかげさまで2006年頃からようやく日本中に利用されるようになった。

近代美術館からはじめて別館の工芸館へ歩いて向かった道と、そのわき道から続く公園は冬に歩くのに気持ち良かった。そして、またはじめて見た北川宏人の彫刻がとてもよかった。ガンダム用語でもあるニュータイプのシリーズは、いかにも日本人が作成したSFアニメ風味なだけなのだが、その現代人版?着衣の若者像が素敵なのだ。と冷静に見ると、これもまた、そうリアルな具象というのでもなく、どことなくアトラスが作成したRPGの新作キャラクターと見えなくもない。猫背で俯きがちで目に力が無くて上目遣いという、そこらへんの彫刻が一室に5,6体並べられているとたまらない。これはいったい何萌えなのかと自分に問うと、吾輩は猫である萌えかもしれぬという答え。