わたしたちは他人の人生を生きています


ガンモハーモニー・コリンで熱狂した人たちをまた同じ映画館に呼び戻したかのようだった「ミスター・ロンリー」は、こっちも向こうも歳をとったからなのか、いきそうでいかないような映画だった。それでも予告編では想像できなかった展開は、一日前に読んだ「吾輩は猫である」なみに驚ける。しかし、見どころはオープニングとエンディングが全てで、この美しくて切ないオープニングに前かがみになれない人はただ辛い時間を過すことになるのかもしれない。他者を通じてしか生きられないと嘆き、死んでいき、再生しようとする物真似芸人達だけど、「人はみな他者を通じてしか生きられなくて、完全な自己など存在しない」というのが、同じ日に見た現代美術のテキストだったんだよと教えてあげたくなる。ちなみに、「ミスター・ロンリー」を唄った、ボビー・ヴィントンが晩年、よくローマ法皇にあったという話しを語っていたという豆知識を知って映画を観るとまたおかしい。あのシスター達の神へ近づこうとする信仰心と住む土地が物真似芸人たちの他者になりたいとする心とあの城のユートピアを重ねてみることができ、シスター達の最後のエピソードが示すところを考えるに、「奇跡は世界のどこかで起きてはいるが証明することができていないだけ」とすると、わたしが小学生のときに発表した理論も、証明できていないだけなのかもしれない。そういえば「ガンモ」も奇跡を待つ映画だった。
仕事中に何度も呼び出しをした介護師の方に携帯のアドレスを教えておいたところ、「父親が雪を見た途端、チャコに会いたいと泣きだしてとまらない」というメールをもらった。そのチャコとはわたしのことのような気もするが、とりあえず犬のことと考え、今度犬の写真を持っていきますと返事を出した。父親の墓石の下の敷石には犬の足型を作ることにしよう。せっかくだから、となりに猫の足型を置いて、猫と犬が死んでも同じ墓に入れてあげることにしよう。猫と犬の葬式にも素敵な言葉を考えておこう。わたしのことを知っているみんながいなくなれば、ようやくわたしも悲しくなれるのかもしれない。