生者にも死者にも無頓着な世界 コーマック・マッカーシー

わたしの部屋の本棚と床は、雑然としながらもひたすら面白い小説とかとにかく立派な小説とか何度も読み返せずにはいられない小説といったような見えないラベルが貼られて区分別けができている。そこからさらにレイモンド・カーヴァーJ・D・サリンジャーリチャード・ブローティガンやら何人かの作家はそれら全ての規格を満たして、わたしがその気になれば探し出せる場所に置かれているはずだ。ただ、またそれらとも違って、わたしのための小説。という大奥の「御殿向き」のような場所にいるのが、イーサン・ケイニン「あの夏、ブルーリヴァーで」やカーソン・マッカラーズ「心は孤独な狩人」やら、数少ない小説たち。そして、そんな小さな場所に3冊も置かれているのがコーマック・マッカーシーの国境三部作だ。と、「童貞。をプロデュース」を見る直前に読み返し終わった感想を終わりゆく数多なセックスの上で書いてみる。
「すべての美しい馬」を最初に読んだときは、とにかく読みづらかった文章が突然わかりやすくなってきたことに驚いて、それだけで嬉しかった。その物語とともに、荒れさと繊細さや汚さと美しさが同居した、句読点が少ない文体で語られる物語にどうしようもなく惹かれていった。そして10数年ぶりに読み返したコーマック・マッカーシー「すべての美しい馬」は、昔の印象以上に、気持ちよくわたしにぴったりくる小説だった。
全てのまともな米国小説は、探し物を求めて旅に出かける物語になっている。そんなアメリカ小説の法則を意識しすぎて日本で書いているのが村上春樹だと思うのだけど、それもまた別の話だ。自分以外の物語の中に最も深く入っていけるのは、映像よりも自分で頁を捲らなければならない小説が一番だ。それは、どんな場所でどんな格好で読んでも、いくつかの小説たちからは、匂いがして風が吹き水を感じて喉が渇く。だから旅に出て探し物を見つけなければならないことが本能的に理解できる。マッカーシーが「すべての美しい馬たち」で描いたジョン・グレイディが馬に乗って走る荒野はとびきりに美しく、彼が愛して求めざるをえなくなるものたちをわたしはそのまま受け入れる。ある種の典型的とも言えるような彼をとりまく人々や出来事は、運命とか宿命とかいうもののさらに高みにある場所に繋がっている。どこか通俗的な物語が、いつのまにか神々を描く叙事詩となっているのを、猫といっしょに床に横になっても感じることができるのだ。と、久々に物語を読むことのしあわせを感じられて、生きていることのしあわせを思い出せてくれた。

映画版「すべての美しい馬」は、ビリー・ボブ・ソーントンの監督。

このごろ、そんなことばかり書いているわたしは本当のところ、今の自分がだめなのかぎりぎりなのか結構大丈夫なのか、よくわからなくなっているのだけど。これから、ネットカフェを出て、恋人渋滞が終わっているだろうホテルのロビーを出て、数分歩いて家にたどり着く先の凡庸な生活は、どこかに繋がっているのだろうかと、わずかな希望を持ちつつわたしは。