「おそいひと」と world's end girlfriend について

すでに、この映画について忘れ去られようとしている画面や物語を自分からひっぱりだして、書いてみる。
映画に美味しい物を食べる場面は必須だ。そして、二人で美味しく食べる場面があると、その二人は愛し合っていることになる。というわたし的映画文法に則り、この映画の住田さんと介護のタケさんも何度となく美味しそうにビールを飲み、カレーを食べる。住田さんの介護をしているタケさんが話す「住田さん」という言葉はぶっきらぼうでとても優しい。それに答えるボイスマシーンから出される声での二人やりとりは、そんな関係を見たことが無いくせに、羨ましいくらいにとても自然だ。そしてその自然さは、住田さんのガチャポンを喜び、介護の女子大生とともに過ごす時間までも羨ましく感じてしまう。そこで彼女から通常のトーンで訊ねられる「住田さんって普通に生まれたかった?」の残酷な問いかけから、この映画は一気に恐怖を孕んだ物語へと転がっていく。
「障害者を使った見せ物映画」という批判に対しては、全ての映画は見せ物だと言えばいいだけだ。この映画は見せ物として、きちんと通俗的で優れていた。逆光から撮った車椅子の動きは激しく美しかった。脳性麻痺で車椅子に乗る姿を、時には過剰にまで美しく、暴力的に捉えていた。そしてそれらは全て物語が終焉するための重要な文体だった。
主人公が、殺人を続けてしまう狂気は容易に理解できない。今は狂気の遥か手前にいるわたしにとっても、それを持つ者達が車椅子に乗っていようが、声を発せられなかろうが、ひとしく人が人を殺す狂気として目に映る。そして、「なぜ人は、」と思う。
ラストの誕生日パーティを用意していた若者たちが、短いコマ割りで映し出される。映画を見ているわたしは、住田さんが殺人をしていることを知っている。住田さんを迎える若者達は、それを知らない。そして、彼らが住田さんが人を殺して家に戻ってきたところ。スクリーンに写るのは彼らが住田さんの姿を見て驚いた顔、顔。そこに、world's end girlfriendのSinging Under The Rainbowが見事に被さった瞬間。その瞬間、わたしは震えたのだ。何度も繰り返して聴いたメロディは激しくて美しい。ただ、今まで部屋のスピーカから聴こえたことがなかった繊細で硬質な音楽が体に響いた。ああ。と。ただ、うわあああ。とシートに背中を強く押しつけるしかなかった。
そのとき、わたしは住田さんだったのだろうか、彼を見た若者たちだったのだろうか。それとも俯瞰で撮られていたように神の目線だったのだろうか。と、時間がたって確信するのは、わたしはあそこで、祈っていたのだ。ゆっくりと曲が高みをめざして行く間、住田さんの家の周りを警察や車椅子の人達に囲まれている状況がカメラがゆっくりと移動する場面。わたしは両手を握って祈っていた。さらに、映画のラスト。モノクロから家の入り口付近だけがカラーに変わる。そこは、わたしの祈りが叶った瞬間であったのかもしれないし、叶わなかったのかもしれないけど、それは完全に何かの結果が出た瞬間だった。玄関の光と色はモノクロの中、とても心地よく次第に眩しく見えた。world's end girlfriendの音楽は鐘が鳴り響く鎮魂歌に聴こえて、わたしの中のものたちは震えがとまらなくなったのだ。優しい物たちや恐い物たちがその玄関へ舞い降りてきた。そんなものを見るのは、わたしにとって初めてのはずなのだけど。