湯島から

人は最初のセックスについては、リボンでくるむようにして大切な場所に丁寧にしまい、語ったり語らなかったりしても、そこかしこで最初のセックスについて想い出す会というものが開かれている。しかし、それに対して最後のセックスについては、全く語られることがない。要するに、歴史的に見て最後のセックスが生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったのだ。 最後のセックスは国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられたのだ。という全くもって村上春樹的にわたしは最後のセックスについて湯島の街を歩きながらずっと考えていた。湯島や上野の街の少し裏道には危険でエロチックな匂いを感じてしまい、蒲団のラブホに行こう。行こうよ蒲団のラブホに。といつも一人ごつるのはわたし仕様なのだろう。そして、最後のセックスについての考えはインド象みたいに足音をたててやってきて。