H・アール・カオス

湯島のデリーでカレーを食べて汗をかきながら歩いて上野文化会館まで辿り着くと、劇場の入り口には救急車が回転灯をまわしながら停まっていた。それは、H・アール・カオスの舞台で使われるロープ吊りの保険のようなものだったのかと思ったのだけど、真相はわからないまま、入場が始まってもずっと救急車の赤い回転灯は回り続けていた。前日の電話では当日券は結構残っているという話を聞いていたのだけど、売り場で教えられた当日券の残席はほんの僅かだった。前日にベニサン・ピットの椅子に座っただけに、久々に座ったこの小屋の大きさに驚く。H・アール・カオスが、大島早紀子が拡大していった夢の果てを見せるには、ここまでの舞台の広さが必要だったのだろうか。「中国の不思議な役人」は、舞台の横も縦も上までをも使いきった舞台装置と、ダンサー全員の動きの大きさに胸躍る。ただ、それにしても触れる距離で首藤康之を見たあとに、川向こうのような距離で見るこの日の鳥居みゆき風衣装の白川直子は遠かった。「中国の不思議な役人」は、モダンダンスや演劇の舞台で何度も繰り返されて上演されていることの要因には寺山修司的「中国の不思議な役人」物語の影響がある。そして寺山修司自体も、自らのこの公演以降の作品全てに、この中国的なエロスと死生観が混入してくる。というのがわたしの寺山修司観なのだけど。それもまた別の話。
寺山修司やその多くのフォロー達が舞台で描き続けてきたように、エロスと繰り返される生と死こそ、H・アール・カオスが続けてきたことだったはず。ただ、それが今回のスペクタルな装置がどう効果的に伝わったのかはわからない。モーリス・ペジャール の公演にしてもこの「中国の不思議な役人」という物語を言葉以上に情報量の多い肉体の動きだけから主題のようなものを捉えようとする力がわたしには欠けていて、かなり疲れてしまう。というよりも、ダンスに対してそんな観かた自体が間違えているのかもしれない。何度も舞台で観てきた「中国不思議な役人」は、何度殺されても死なない役人が、愛をえることで「ようやく」死を迎えることができる。という残酷なようでロマンチックな死生観といえなくもない物語だったのに、今回もいつもながらの大掛かりな仕掛けの踊りが、まるでシルクドソレイユのようなサーカスに見えて終わってしまった。というのは、、わたしが悪い意味でこの物語に囚われていたからかもしれない。
それと、ボレロの幕間の武満徹作品の演奏があって、指揮者が客席の中に入って指揮をする。という光景をはじめて観たのだけど。ああいうのは、よくあることなのでしょうか。さらに、そのあとにダンサーの休憩のために指揮者と大学教授のトークショウ。という光景も初めて見たのだけど、指揮者がものすごく声がよくて司会上手なところに立ち上がって拍手を送りたくなった。
わたしはボレロと書いて精子卵子の物語と読むくらい、セックスそれ自体の踊りだと思っていますよ。ボレロソリストもコロスも全員が女性というのは、H・アール・カオスしか知らないけど、女性のみによって踊られることで、いっそうボレロの単純さと美しさが引き出されていた。全体が赤い花びらで囲まれている舞台は、大島早紀子がどこかで語っていた、自分がかいま見てしまった死後の世界だったかもしれない。しかし、その舞台の中央で踊る白河直子の躯は神々しいほど生に満ちていた。赤い花びらが乱舞し、ここが高みの極めかと思わせたところで、もしかしたら、永久に終わらないのかしらと続けられる絶頂感では、傍観者のわたしはその光景を見ることは喜びよりも儚く美しすぎる性を観るようで苦しい。そして、突然止まる音楽と踊りの終焉にこそ、魂が昇る男性的なエロスか。と、わたしの鼓動も絶え間なく高くなって止まる。しかし、舞台が暗転して、これもまた立ち上がっての拍手がいつまでも続く行為は、参加型のエロスかしら。と、何にでもエロとかセックスに結びつけるこの頃はどうしたものだか。