誰かが手を、握っているような気がしてならない

誰かが手を、握っているような気がしてならない
きっと添削文章通信教育であれば「X」をつけられて戻ってくるような、「手を、」の「、」の位置がカワイイ。と思える人であれば、この小説はサクサクと読みめられるだろうし、いくつかの戸惑いを通り越して読み通した人にとっては、とても重要な小説になってしまうと思う。わたしにとっては、五反田団の舞台や今までの小説やこの小説の文体からも感じる心地よいゆるさから、この小説で初めてのぞくことができた激しさってやつに揺さぶられた。
ああ、また神様かよとか思いつつ。エヴァンゲリオンですかよとか思いつつも。エヴァをおじさんたちが作っていた物語と上目で思うような若い人のための小説なのだろうと思いつつも。ライブで周りを見渡すと、わたしが一番歳上かもしれないという恥ずかしさを気にしながらも自分でモッシュダイブしてしまうような。あるいは弾き語りのフォークなのだけど、体をくるくるさせて誰かにいつまでも体を委ねていたいような。フジロックレッドステージからバス停まで運び出されついでに湯沢温泉まで持っていかれて熱燗飲んで似合わない浴衣をだらしなく着て寝てしまいたくなるような。そんな気持ちにまでなったとは言いませんけど。この物語は、時間潰しというだけで、だらだらと生きてしまって、次から次にやってくる書類を右から左に流すだけの生活をしているわたしをすら、いやちょっとまてまってくださいよと、そこに立ち止まらせた。
わたしは、結局は小説で人を描くということは、作者が作者自身のことしか書ききれないのだと思っていたが、この小説は、タカシやミナコやリオやナオが本当にリアルにいたうえに、彼らの手の繋いだ先に現れたものをきちんと書ききれていた。子供を産んだ女が自分の妊娠線を気にするこのリアルさを書きつつも、神の自殺のリアルさを同一線上に繰り広げてしまう。そして人と神のあるいは、夫と妻のこんなに低次元で切実で切なくていやらしくてキレイなセックスの描写がここでは書ききれていた。抱きあうっていうのはこういうことだったのにね。とついでに小説の感想と違う方向に胸が苦しくなる。チェーホフが小さな宇宙を描いたと同義で、巨大な家族小説を読んだ満足感を味わえた。
わたしは、たぶん「ニセS高原から」以降、勝手にこの平田オリザ風味の劇団たちを見る熱が冷めていたし、劇作家達が書いている純文学にもそれほど面白いと思えなかったし、ついこの間の前田司郎の五反田団の舞台でもこの小説ほど熱くなれなかったのだけど。id:shinaco さんのすすめ具合を読んでしまった勢いで久々のポツドールも手を振って観に行こうと思う。