人間は堕落する。それを防ぐことはできないし、人を救うことはできない。

ラナーク―四巻からなる伝記 哀れなるものたち (ハヤカワepiブック・プラネット)  エヴァ・トラウト (ボウエン・コレクション) あの薔薇を見てよ―ボウエン・ミステリー短編集 (MINERVA世界文学選)

アラスター・グレイの「ラナーク」や「哀れなるものたち」を読んで、エリザベス・ボウエンの「エヴァ・トラスト」やら厚い翻訳小説を読むのは幸せだ。家で読む小説を選ぶ基準は、ただその本の厚さだけだ。物語はときにその量だけで質を凌駕する。
しかし、ただでさえ運動着で思い通勤鞄の中に入れられるのは文庫本に限る。今年から、わたしの中で近代日本文学を読み直そうというイベントが起こった。理由はほとんど読んだことがないから。ということで、もう夏目漱石森鴎外からやり直した。と、中学生の時に読んだ芥川龍之介川端康成は、本当は何も分かっていなくて、これだけ年をとってようやくわかるようになった。みたいな風に思うのではないかと高をくくっていたのだが。そんなことは全く無く、寧ろ自宅で読んだ自分の中学のときのおまえは何様だ風の感想文に負ける。今更、太宰治谷崎潤一郎の感想を書いてもしかたないのだけど。坂口安吾につていは全く読み違えていました。という報告を。
そもそも、読んだかどうかも覚えていない「堕落論」や「白痴」からは内向的で自虐的で堕落する無頼派?な方向に思っていたのに。それこそ真逆な強い生へのメッセージと強き物語だった。人間の本性を信じ、生きることで絶望を救おうとしている力技に眩暈。と、そんな今更の感想がお恥ずかしいので。ついでにそのパンキッシュな文章を記録。

人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちゆぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにはいれらなくなるであろう。だが、他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちきることが必要なのだ。

この「堕落論」「続堕落論」はもとより、小説では有名な「白痴」、「桜の森の満開の下」、「赤鬼の褌を洗う女」、「夜長姫と耳男」から本格推理物「不連続殺人事件」もみんな面白かったのだけど、どういうこと?っていうくらい笑える面白文体で覆われた「風博士」や「閑山」も凄いのだ。だって蛸博士だよ。ああ、町田康坂口安吾が大好きなのだね。と納得。
新潮文庫「白痴」の福田恆存のあとがきがまた格別熱くてカッコイイので自分のために最後の文を引用

もう一度、この解説をはじめから読み直してみたまえ。はてしない循環ーそこには近代日本文学の宿命がある。もう一度、読みなおしてくれたまえ、坂口安吾がこの宿命とたたかっていることを、ぼくは書いてきたはずである。

そうだ。わたしは闘っている人が好きなのだ。ビョークが中国でチベットチベット!と叫んだことも、中国チベット自治区で暴動が起きたこともよく知られているけど、その数日前にビョークが武道館でコソボコソボ!と叫んだことや、3月18日に日本政府がコソボの独立を承認したことは殆ど知られていない。
小池栄子が映画「接吻」でトヨエツに「戦闘開始だね」と言う場面で、わたしがキュンとなったことも知られていない。