実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

連合赤軍を扱った小説や映画で、よかったものなんてひとつもない。特に最近の「光の雨」、「突入せよ! あさま山荘事件」はわたしにとってはひどい映画だった。だからといって長谷川和彦赤軍映画に期待をしているわけでもなく。若松孝二赤軍映画に期待をしていたわけでもなく。あの事件が何であったのかをどうしても知りたかったわけでもなく。それでも、少しだけ遠い地の映画館へいそいそと出かけると、そこは平均年齢が間違いなく50を越えた男子ばかりで立ち見までいる異様な場所だった。特にわたしが座った列は60歳を越えた夫婦を含む団体で、赤軍メンバの実名や自分らの活動について、まるで同窓会の仲間の話をするように和気靄々と、あの頃のことを懐かしむように楽しげに語り合っていた。
若松孝二の作品をよく観た学生時代のように、そうそう。と原田芳男のナレーションに被さる実写と物語がジム・オルークの美しい旋律を背景として交錯する導入部を眺める。やはりペドロ・コスタの映像ばかりに漬かっていたからか、誇張された作り物な映像が気になってしまう。
つかこうへいの芝居に描かれた世界革命戦争からなる笑いをとるほど滑稽な演説風景が、そのまま、この映画でも繰り返されていた。現実の指導者会議や総括というものも時間が滑稽に見せてしまうのだろう。それから、息詰まるようなそれでいて少しだけ滑稽に感じてしまう山岳ベースでのリンチ事件の描写が続く。ただ、わたしが知っている限りの事実より、そこは大分柔らかい描写となっていて、若松孝二作品として想像してしまうキツイ描写は全くない。それが一般映画としての意識だったのかは、わからない。それでも、永田洋子森恒夫が逮捕されたところで、この映画はおよそ終わったのだろうと思っていた。わたしはあさま山荘での映画としてのここからの描写は、特別なことは何も起こらないだとうと考えていた。
しかし、あさま山荘に生き残った5人が辿り着いたところから、映画が美しく輝き出す。それは、やはり若松孝二的な連合赤軍への、あるいはこの日本の時代への真摯な恋文であったのだろう。赤軍映画で。あさま山荘の籠城場面で。映画館を泣き声で震わせる演出力に。そしてたった一言の台詞で映画を転換される言葉の力に。わたしは圧倒された。
もしもあなたが、とても悲しい映画を観たかったら、もしも美しい青春映画を観たかったら、もっとも現代的な日本映画を観たかったら、この間違いなくタイトルで観客を引かせているだろう「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を映画館の椅子に座って観るのが一番だと思う。
彼らがあの時代に日本という国に怒り、間違えていると感じたことは正しかったのだろう。ただ、彼らが正しいと思う国はどこにもなかったし、これからも誰にも作れないだろうし、それがどういうものだったのか、彼らにも本当はわからなかったのだろうと勝手に決めつけて勝手に悲しむ。