左利きの猫と右利きの犬

Shipbuilding2008-05-12

実家の家でよくわからない葉を食べているカタツムリを見つけた。きれいな色をした貝の部分を持って指の上に乗せるともぞもぞと体を動かして貝の中に入ってしまうと、地面に落ちた。犬がすばやくそれを銜えて走っていった。カタツムリを食べないように母が犬を追いかけた。母が転ばないように猫が母を追いかけた。それは実家で見られた食物連鎖だった。
朝日新聞日曜版beのによると殆どのカタツムリは右巻きらしい。右巻きの種で極稀に左向きが生まれることがあるが、逆向きのカタツムリでは交尾ができなくなる。そのために左巻きのカタツムリが生まれてもその個体で終わってしまう。が、そこをものすごい執念で本来右向きの種から、左巻きの可能性のある個を見つけて15年間左向きのカタツムリを作り続けている。という、そんな喉かな日曜版の記事を読んで、この人の仕事は神に挑戦するかのような仕事だと感動した。
先週みた映画の「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」には椅子から立てなくなるくらい感動した。と、その感動加減というのはカタツムリの記事と同義だ。ここでは小洒落たポール・トーマス・アンダーソンという味わいは一切無く、美しい最新の古典映画を見させられた。ラストのボーリング場対決が圧巻で、わたしはこれはドストエフスキーだよね。と呟くけど、そんな言葉はどこにも書いてない。だからこんな世界の片隅で「ポール・トーマス・アンダーソンは現代のドストエフスキーだ」って鼻をほじりくながら書いてみるよ。ドストエフスキー辺りから、人の罪と神の存在についての闘いがよく描かれるけど、たいていは神が打ち負かされることになる。しかしこれだけ頻繁に闘いに呼ばれてしまう神様というのもさぞ忙しかろうけど。それは結局のところ、現実では神だけが勝ち続けているからなのでだろう。ひとり勝ちってのは、このことだろう。
今週も実家で料理をする。筍ご飯と筑前煮を大量に作る。料理の間、アダム・ジョンソン「トラウマ・プレート」、エイミー・ベンダーの「わがままなやつら」を読む。エイミー・ベンダーは奇妙な設定という味わいがなくなって、奇妙な切なさが増した。死や生や性が観たことが無いくせに可愛くさえ感じるようなクロワッサンやカタツムリの貝のようなねじれ加減で書かれている。欲望について語り合い、最後に自分の欲望の部屋に閉じ込められる男の物語「マザー・ファッカー」は箸を持ちながら何度も読み返すが、そういうわけで、わたしにはカタツムリな感触がする。
昨年あたりから両親とは「もうすぐ死ぬから」という言葉が日常的になってしまい、全く誰にとっても切羽詰まり感がない。映画「最高の人生のみつけかた」で死んで行く前にすることをリストにするところでは、いっしょに考えてしまう。リストのひとつ「知らない人に親切にする」を実行する場面だけはよかったけど。それ以外はとてもつまらない映画だった。わたしの家の♀犬と猫と親の最後のリストには「外泊をしたい」というのがあるらしいので、面倒なのでいっしょに叶えてしまいたい。が、そんなことをしたら、「リトル・ミス・サンシャイン」のような珍道中になって誰かが死んでしまう気がする。そうそう。リトル・ミス・サンシャインで、わたしは、ポール・ダノの表情にやられました。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」でも、ポール・ダノの小心者を気取る顔にやられまくり唾を飲み込みまくりだった。
Little Drummer Boy Live April Ghosts of the Great Highway
わたしが好きなMark Kozelekが今週ライブをやるけど行くのかという連絡をもらう。が、好きだといったことだけでなく、Mark Kozelekの名前すら忘れていた。ひどい。もう一度聴き直すが、簡単に好きになる。Sun Kil Moonも好きになりなおす。好きだった頃のことをいまひとつ思い出せないところをお許しください。
映画「つぐない」は、メロドラマとしては、とてもよくできていた。しかし、と小説「贖罪」のことを思う。現代の英文学で古典として残るのは、カズオ・イシグロイアン・マキューアンだとよく書かれている。そんなものかしらね。とカズオ・イシグロ「わたしを離さないで」やイアン・マキューアン「贖罪」のやりすぎ感を思うのだけど。それらをやりすぎだなんてことは、どこにも書かれていない。わたしが「せっかく」贖罪を読み直したので、ちょっとそれはやりすぎだべえ感を書いてみる。
贖罪〈上〉 (新潮文庫) 贖罪 下巻 (2) (新潮文庫 マ 28-4) スケルトン イン ザ クローゼット (フラワーコミックス)
「すべての小説愛好家は読まなければならない」豊崎由美。とか。映画は、とても立派に物語を映像にしていたけど、この小説自体が小説の構造と物語について書かれているところまでは省かれている。グレート・ギャツビーの冒頭の言葉と近い言葉を13歳の少女が語る「他人も自分と同じくリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ」なんで13歳の少女がこんな言葉を。というのは気にしない。平たく言うと、他人のことをリアルに考えましょうよというこことで。そして、それを教えられるのは物語だけだという。と、少女が小説家を目指すことから、全篇にいたって小説の物語とは何であるのかが語られる。そしてそれは、上の少女の言葉と殆ど同じ言葉をイアン・マキューアンが9.11の事件に対して語っている言葉と同じで、文学や物語が世界を救う。と彼は語る。その彼の倫理観で美しく描かれた、第一部が少女が目撃した姉と恋人と少女が犯した過ち。第二部がまた美しく残酷な戦場。第三部が主人公が再会した姉とその恋人。それらはまさしく、作者の語る世界を救う物語となっていたのかもしれない。しかし、最後のエピローグで、作家になって死を迎える前に少女の時に実現しなかった舞台を再現するという泣きのあとに、今まで読んできた物語を大崩ししてしまうのだ。何と言うか夢落ちや妄想落ちではないが、小説落ち?それが小説の構造として新しいとか主題がより迫真となる。なんてことより、そんな派手なことをしなくても。とわたしは怖じ気づいてしまったのだ。そして、主人公やイアン・マキューアンや世界の小説家達が信じるらしい、物語だけが世界を救うという理想が、少し遠く感じてしまったのだ。また、「神が贖罪することがありえないのと同様、小説家にも贖罪はありえない」というまとめに至っては逆に小さな小説家の人生の物語になってしまったように感じてしまったのだ。
いつも読んだことが無い少女漫画を選ぶ参考にさせていただいている id:ichinicsさんへのお礼ついでに、岩本ナオのどこがそんなに良いのかを考えて読み返すが、どこが気に入ったのかが、わからなくなる。
いちばん好きなのが、たぶん最初の作品集でたぶん一番絵が上手くない「スケルトン イン ザ クローゼット」なのだけど。カットがどうこうではなくて、リアルな少女を感じたから?でもそれは、数多ある少女漫画なの中でどうして特別なのかというと。バランスが狂っているところを含めた作者のリアルさに勝手に少女漫画を感じてほっとすることができたからなのか。いや、もう好きになるのに理由は無いわ。じゃあ、なんだ今日こんなにだらだら書いたこともみんな意味が無いんだと納得。
わたしが誰かを好きになる理由がなくてもそれをわたしは信じるくせに。誰かがわたしを好きになる理由が無いとそれをわたしは信じないくせに。そのくせ誰かがわたしを好きでなかったことへの想像力がわたしには全く欠けていた。
わたしが大量に作った筑前煮と筍ご飯をタッパに入れて持たされる。少しも嬉しくないが嬉しいふりをする。母の日であったことを思い出し、母の日の花は朝顔が咲いたら持ってくるとでまかせを言ってみるが、それで本当に喜んでいたかどうかはもちろんわからない。

わたしの人生の頂点は自転車の二人乗りをした時だとは言いたくありま

Shipbuilding2008-05-06

こんな形が本当に朝顔なのか自信がなくなるが。写真で比べると、とりあえず大きくはなっている。釜飯の鉢ですけど、すでに蔓用の棒も用意して育てる気はまんまん。
連休は父親の施設と病院と母親の家への往来にあけくれる。犬の散歩をしたところで、連休の最後の料理としてカレーを作ろうと思い立つ。
ニンニクをオリーブオイルで炒めたフライパンに玉葱を三個を入れて、今は日本国で貴重品となったバターを大量にいれて弱火で炒める。心が痛められた人が玉葱を炒めるんだ。とかひとりごちながら木の杓文字をくりくり回してipodでいろいろな音を聴きながら「モンキー・ビジネス」を読んだりしていると、犬が脚にまとわりつく。じゃまなやつめと、茹でたジャガイモをやると喜んで食べる。サラダ用に茹でていたニンジンやブロッコリーもあげる。母親が最近は自分と犬用に茹で野菜ばかり食べているというが、ほんとに犬に犬の餌をやらないから犬らしくないのだ。
食べ物と顔がその人と犬の思想を形成してしまうのだ。逆もまた可であるはず。
2時間半をかけて玉葱を炒め続けて黄金のキャラメル色にする。もうこの黄金の玉葱さえあれば、わたしには香辛料もルーもが何であってもどうでもいい。あとは安い豚バラの細切れをこの玉葱と一緒に炒める。何かにつけ、肉は一枚ずつよく広げて焼け。というのが唯一母親から教わった貧しい人の料理のテーゼだ。肉の中に玉葱がすりこむ感じになってから、水を入れる。あとは定番のカレー野菜以外に冷蔵庫にあった茄子とピーマンとエリンギもオリーブオイルで軽く炒めて後半に入れる。出来上がる直前にオクラを入れたりする。盛り合わせで筍の土佐煮を作る。5時間かかる。
「モンキー・ビジネス」を完璧に読み終えてしまう。柴田元幸さん周辺の人々が書いていて、丁度読んでいた小野正嗣とわたしの作家である尾崎翠とそのわたしの小説であるはずの「第七官界彷徨」を川上未映子が解説をしている。しかも、わたしの「ドーナツの穴問題」に第七官界彷徨をたとえるなんて。川上未映子の「わたくし率 イン 歯ー、または世界」は2.5回読んだばかりだ。こんなにがんばって読んだのだから、もう誰かと決して合わないだろう答え合わせをしたくなった。勿論そんな話し相手はいない。日本人の口語は1976年に生まれた人からきっちりと境界線が引かれて変わってしまった。というわたしの持論があるのだけど。それはまたいつか。
料理の時間が長すぎるし量が多すぎると母親には怒られる。まあ、それはそのとおりだ。淡々と食事が終わる。でも、かなり美味しいんだよこれ。と、ここで書いておく。

週刊真木よう子を一気にみて、井口昇の特別感をテレビでも味わう。井口さんウォッチャーであったわたしでも、去年の大人計画の映画や「そんな無茶な!」の「おばあちゃんキス」で、ようやく井口さんの「嗜好」とは狙いではなくて本気と書いてヤバイと読むであったのだとわかる。ついでに夏に公開らしい「片腕マシンガール」は、週刊真木よう子の姿と同じではなかろうかと。
やはり円城塔川上未映子が称賛されるこの日本純文学界というのは、わたしも石原慎太郎以上に今の小説への理解ができていない。「ユリイカ」や「考える人」の世界文学の特集を読んで、今のも新しいのも、これならばわたしはわかるという方向で安らぐ。ただ、よく行われるロックベスト100が、いつものビートルズとデイランばかりで面白みがないのと同じように。このベスト100も普通すぎるのだけど。もちろんわたしは、「失われた時を求めて」は図書館の立ち読みで挫折したきりだ。きっと、世界中の失われた時を求めては第一篇だけが借りられて、第二篇からほとんど借りられていないはず。本当は第二編以降は存在しないのかもしれない。
あ。猫のホテルにだけは見に行った。「けんか哀歌」。当日にいっても残念ながら空席がまだあった。こんなに多くの役者たちが売れるとは思えなかったけど、相変わらずの商業浪花節小劇場演劇で相変わらずのキャラ芝居がとても愛おしい。
体調がよくなかったので、自転車に乗って犬の散歩にいく。横を大人の男女が二人乗りの自転車を漕いでいた。いい大人のくせに、実に楽しそうにはしゃぎながら二人乗りをしている。「ハイ。そこ。羨ましがらない!」と、犬と自分に言い聞かせる。なんか最近映画で男女の二人乗りのいい場面を見たような気がする。散歩の間、ずっとこんがらがる記憶をたどる。片思いだったかもしれない人と横浜公園で笑いながら二人乗りをしたことを思い出す。コーハイから聞いたばかりなラブリーな二人乗りの話しを思い出す。その回答はポレポレ東中野でみたピンク映画であった。でも、タイトルは思い出せない。
実家に持っていって、よかった本「最後のウィネベーゴ」asin:430962197Xなんか知ってる文体ね。と思ったら「犬は勘定に入れてません」のコニー・ウイルスだった。あとがきを読んで、ようやく女性と気づく。「アメリカにいる、きみ」asin:4309204791これはとても地味だけど、この人は書かなければならない人なのだと納得。スラデック「蒸気駆動の少年」asin:4309622011も面白くて、しばらくSFを読みましょう。と数百回目のダイエットをしましょうと、もう傷ついたふりをするのはやめましょうと一緒に誓う。
家に帰ってようやく、介護と家事のようなことや他のことやらでつかれはてていることに気づく。しばらくは朝顔のことだけを考えよう。

朝顔の写真はVQ1005で雑誌ナショナルジオグラフィック風味の表紙は、うちのバカ猫をid:sdtさんのだれかへの要望を勝手にうけて、作ってみました。どんなものでしょうか。

君と最悪の人生を消したい

Shipbuilding2008-05-04

朝顔はもちろんどこかしら成長して変わっているのだろうけど昨日との違いは気づかない。もう朝顔の写真を載せるだけでも毎日だらだら書き続けてみせたい。そういえば雨水に頼って一度も水をやっていない。しかも、釜飯の鉢は底に穴が開いていない。なんとかなる。たいていのことは気にしない方が却ってなんとかなる。そんなはず。
というわけで。このエントリは、The ピーズが好きなあの人へ 

ゆーわけで/せっかくだし/悪いけど/続くよ/
君と最悪な人生消したい/そして最悪の人生を消したい
「実験4号」

犬を動物病院へ連れていく。それから母親の思いつきで犬を車に乗せたまま父親の施設へ連れていき、父と犬との感動の再会をさせてやろうという流れになる。フェラリヤの注射のせいなのかわたしの運転のせいなのか、ぐったり感あふれる彼女の顔は気にしない。こんな半端なVQ1005の写真をあらためて見るにつけ、やるきのない顔がすてきだ。彼女はハーハー言わない。病院で他の犬猫を見ても関心をしめさない。という自分のことをおそらく犬と思っていない♀犬だ。
施設で父親に犬を連れてきているというと、わかっているのかいないのか、チャコに会いたい会いたいよ。と声が上ずる。そのまま駐車場へ連れていき、彼女を父親のもとへひきあわす。が、6年も一緒に暮して、たった1年会わないだけなのに、吠えまくる愚犬チャコであった。父親もあからさまにがっかりしつつ、犬の名前を何度も叫ぶ。しかし、犬吠え続ける。という状況で犬と父親に「びっくりしただけだから」と、取り繕って無理矢理吠えるのと叫ぶのをやめさせる。父親は何がどう興奮したのか犬の顔をたたきだす。犬また吠える。と収拾がつかなくなってくるので、この会合が失敗したことを関係者全員が理解したところで、解散をする。
帰りの車の中では、ウルフルズのラブソング・ベストに入っている実験4号やワンダフルワールドや僕の人生の今は何章目ぐらいだろうを聴いてウルフルズっていいのねと気づくついでに、「バンザイ」にあわせて「君を好きでよかった/バンザイ/君に会えてよかった/このままずうっと/ずうっと/死ぬまではっぴい」と、いろいろなことを誤魔化すように大声で歌う。♀犬に冷たい視線を向けられる。
彼女がわたしを見る視線から、しょっちゅう「あんた、なにやってんのよ」みたいな吹き出しが出ている気がしてならない。

The ピーズ実験4号」の井坂幸太郎と山下敦弘の小説と映画のコラボ。っていうのを読んで観た。小説を読んでからDVDという順で。これが全く関係なく曲のイメージで作られたコラボかと思っていたら。小説と映画に相互補完という成り立ちがあった。たぶん、小説から映画の順序の方がわかりやすく、映像の細かな場面にああと気づいては頷くことができる。あるいは、逆からというのも、全く違う発見があったのかもしれないけど、それはもうわからない。そして簡単で真摯なわたしの感想は「これのどこが実験4号であったのだろう」だ。
実験4号
わたしが小学2年生のときに転校した学校はできたばかりの団地にある小学校だったので、この小説と映画の実験4号と同じ設定の男子生徒が3人で若くて奇妙な女の先生が担任だった。
はじめて行く学校に、わたしはうまれて初めてのパーカーというものを着て行った。なんとなく、パーカーが誇らしくて、おなかのポケットに両腕を入れて、フードを被ったりしてスキップしながら歩きまわった。担任の先生からもパーカーを褒められて、さかんにパーカーのフードをいじられた。家に帰って、そのフードの中になにか濡れたゴムが入っているのに気づいたのだが、それが何だか気づかずに先生が間違えていれてしまったのかと、濡れたゴムをつかんで捨てた。それから、小学校の6年生になって公園のフェンスに、ゴムがひっかかっているのを見て、それが昔の自分のフードの中に入っていたものだと同じ物だと気づいたが、それが何のゴムなのかは、まだわからなかった。
そして、どこかでコンドームというものがあることを知識として得ていたはずなのに、どこかではじめて自分が使うことになった時に、まさしくそれを使い終わった瞬間に、小学2年生のわたしのパーカーに入っていた物が使われたばかりのコンドームであることに気づいた。
そのときにうしろで流れていたのが「実験4号」でした。という出来すぎたことにはならず、それからほんの数年あとに、誰かから「わたしはThe ピーズがすきだ」という話を聞いて、あわててThe ピーズを買って聴いたのでした。というはなし。

あさがおにっきその1

Shipbuilding2008-05-03

朝顔朝顔らしくない芽。葉も茎も緑というより茶色がかった色でちよっと恐い。大丈夫なのだろうか。
猫がよく洗面所にとじこもっている。夜に家に帰って猫がいないので探すと締められた洗面所から「んもう!」という感じでひと啼きして出てくる。おまけに水道の水が出しっぱなしであったりするので、蛇口を開けっ放しで扉も開けっぱなしで出かけてしまうだらしない自分を自分で叱っていた。わたしが扉を開けたままにしてしまったものだから、中に入った猫が誤って扉を押して出られなくなて一日中辛かったろうね。ごめんよ♀ねこ。
と思っていたら、風呂から出たところで、猫が自分で扉を中から押して締めているところを目撃。さらに洗面台に飛び上がって、こいつは蛇口を押して水を飲み出す。自由なやつめ。と、こっちも持久戦を覚悟でお風呂用雑誌を読んで♀猫の行動を観察する。と、ねこは洗濯機の上に飛び乗り、洗濯カゴに入れっぱなしになっていたわたしのセータやパンツの中に潜り込む。そういうわけでわたしの洋服や下着やわたしの体のどこもかしこもが猫の毛で被われているのだ。
テレビの3CHで梅若六郎プリセツカヤボレロを見る。リハーサルとかから見ていて背中がこそばゆい恥ずかしさのようなものを感じる。本番のマイヤ・プリセツカヤが登場するまでは、それなりに見られたかもしれない。和楽がボレロと意外に合うのだということはわかった。
数日前には勤め先から歩いて行けるところにある月島の「TEMPORARY CONTEMPORAR」で神村恵を見ていたことを思い出す。クラシックよりも人の体の予期できない動きから人の原初的なモノ。あるいは人イゼンのようなモノゴトをわたしの細胞に思い出させしむことに遭遇したいのだ。わたしは。と、思いの他静かであった、神村恵「ソロ+アルファ」を見ていたときも考えていた。
雑誌「美術の窓・新人大図鑑2008」に見とれる。面白いわねと思った人をネットで検索するとたいてい、その人の絵を探し出せるし、HPまでできていたりする。諏訪敦さんは新聞の挿し絵を描いているくらいだから、もう立派なサイトが。で、有名なのはやはり「SLEEPERS」なのだけど。また8人の女性達の油彩とともに彼女達へのインタビューが載っている「JAPANESE BEAUTY」が、テキストの力を足されて絵画以上のイメージを貰えてとても面白い。
町田久美(http://www.pingmag.jp/J/2006/02/17/kumi-machida-ink-paintings/)も
鴻池朋子http://commonsphere.jp/feature/interview/kounoike/01_01.php)も
一度みたら、なかなか見続けるのをやめられなくなる。
そういえば、はてなでこっそり読んでい人の絵もとても好きなのだけど。リンクは遠慮。と、一日中、いんたーねっつであれこれと絵を見ていたら、画家さんたちがまた結構ブログのようなものを書いていることを知ったりする。そこまでは知らなかった方がよかったかもしれぬ。
オブ・ザ・ベースボール
円城塔の「オブ・ザ・ベースボール」は、それはそれは円城比150%くらい読みやすく。いちおう、そこで起こっているらしきことについていける。なんだか井村恭一「ベイスボイル・ブック」の続編なのかオマージュなのかというくらい感触に似た物を感じる。しかし、そちらには人がいて熱帯のどこかの土地があったのに対して、円城塔の小説には今回も人も土地も存在感がない。ただ、出来事が連なり、ベース・ボールチームでありレスキューチームである彼が走り出し、落下者をバットで打ち返す場面はおもしろいとさえ感じてしまう。そしてファウルであったという結末。これが、構造美なのですか、現代文学なのですか。奇麗な箱に入れられて、柵で囲まれて展示された何かわからないキッチリしたモノ。という感じで。「SFが読みたい」の2008年版で「円城塔は構造消費タイプで伊藤計劃は装飾消費タイプだ」とお互いに説明しあっていることにはとても納得。黄色い本「Self-Reference ENGINE」にもう一度挑戦しようと思ったものの、今や雑多な物に埋もれてしまって見つかけられない。だいたいあの辺りにあるだろうことはわかるのだけど。
わたしは何につけ、そういう状態にしてしまうのかもしれない。

こーはいよ

Shipbuilding2008-05-02

なんとなくとつぜんと4.5年ぶりにコーハイに会う。本来は何か辛い出来事を聞きましょう。という会合の目的があったものの、どこで会うとかどの店で何を食べようかねなどという方向に懸命になって目的を逸っしているわたしがいた。VQ1005で写真をご満悦に撮りそれがまたこんな風に見事に失敗し汗をたくさんかき釜飯を食べたり甘い物を食べたり飲んだり、そして咳きこみつつお年寄で賑わう谷根千界隈を粛々と回る。
コーハイが好きな芝居や小説の話にセンパイの威厳を示そうとするが、コーハイの方が断然詳しい。コーハイのくせに何か難しいことを語る。そういえば、わたしは芝居や小説について、きちんと人と話したことがなかった。まったく言語化できないわたしは、低レベルな自分のくだらなさを語る。そして、それはセンパイが悪い。と正論を言われてしまう。おまけに語ってもいないし隠していたはずのわたしの俗っぽさについて指摘されてしまう。あまりの正しさに笑うしかない。コーハイもまた見事に笑っているので、なんとなく差し引きプラス感。普段聞かれないことばかり聞かれ、使わない頭を無駄な力を入れてクルクル回してみる。喜怒哀楽がないわたしはおよそ無表情だったのかもしれないが、それは結構楽しいことであった。
コーハイも、およそ楽しげに笑っていた。ただそれはわたしが全く登場しない場面で、幸福な出来事が悲しい出来事に変貌してしまったその瞬間をコーハイは懐かしがっていただけなのかもしれないけど。その無邪気さ満点の笑顔をみて、わたしはコーハイの生き方の素直さが羨ましくて机の下で◎をつけた。
それでも話し足りないのかと六本木の森美術館まで引き回す。森美術館ターナー展もよかったのかもしれないけど、わたしはなにひとつ解説できずに、椅子を見つける度に腰掛けては休息をとるだけだった。
切断された牛の親子や電球が点灯したり消えたりするだけの部屋や60分間動かずひたすら我慢する警察官たちやキートンのように家が倒れても無表情の人や美術館の中を歩き回るクマのヌイグルミ。というのは面白いといえば、面白い。だけど、そこに哲学的美術史的あるいは政治社会的意味が背景にあるなんてことは解説を読まないとわかりやしない。いな。読んでもまったく納得がいかない。わたしが美術館巡りや現代美術が単純に好きなのは、あのやったもん勝ちのわかりやすい面白さやエロさや可愛さや物語っぽさに限られているのだ。
いつのまにか森美術館の屋上が解放されていて、屋上にてだらだらと話していたことは、ターナー展のあれこれやスカイザバスハウスの奥原しんこや屋上から見えたくすんだ夕焼けと渾然とした印象になっている。しかし、コーハイが語るその評論家や小説家の大部分を、本当はわたしは名前を知っているだけで難しくて読めていないことは内緒だ。東京タワーを見ながら誰かの小説は、ただのマザコン男の最低な小説だ。という点だけは意見の一致をみて、盛り上がれる。
コーハイから聞いたいろいろなことをすでに忘れているので帰りの電車でメールをしてあれやこれは何だったのかと聞いてみる。ついでに、きみの名前は何ていうのかと聞いてしまう。さらについでに、森美術館の屋上で撮影したきみの写真を貼付する。送り終わってからしげしげとその写真を眺めると、楽しそうなのか悲しそうなのか何を考えているのかも全くわからないくらいきみの見事で不思議な笑顔が写っていた。
まあそれは、わたしの撮り方が見事だったからに違いない。きみにいろいろと見透かされながらも、まだ知られていないはずの、わたしのさらなるくだらなさやずるさを隠し通しきりたい。そして、油断をすると次に会うのは、10年くらい先になってしまうかもしれないところを、ごまかして、もう少し早めに再会しよう。そのときは、今度こそきみが話したことを忘れないようにノートを持っていこう。

猫を洗う

Shipbuilding2008-04-29

猫をあらう。その前に風呂場の床を洗った方がいいのではなんて考えない。猫の毛にフケのようなものがあるんじゃない。とはいうものの家猫は洗う必要がないとか、洗わない方がいいと言われているのだけど。やることがなくて、もう少し猫と深く関わってもいいのではないかしら。ということで5年ぶりくらいに彼女が泣いて嫌がるシャンプーに挑む。
猫がヌレヌレになると、あの動物とそっくりになる。あれ。あれの名前が思い出せない。ついでに自分の体も猫シャンプーで洗ってしまう。風呂場を逃げ回り捕まえても並の抵抗ではなくなるのでこちらも裸になって、股に彼女を挟んで「ちゃんとすすがないとだめなんだからっ」と耳元に叫んでは濯ぐ。大量の毛の間に指を入れて梳くのはなんとなく気持ちが良い。彼女も体が動けなくなって抵抗をやめる。お互いが頬を紅潮させて見つめあう。シャワーの栓を締めたときには、情事の後のような倦怠感と充実感を覚える。体をタオルで拭くが、ドライヤーは近づけるだけで体をすり抜けて逃げてしまう。生乾きの体のまま、家中を走り回る。落ち着けるために餌でつろうとするが、寄ってこない。走り回っては、濡れた体で床を転げるので、かえって汚くなる。なにやってくれたのよ。みたいな顔で猫から見られる。この結果をわたしは素直に受け止める。しかし結果よりもあの風呂場での愛と憎しみが一体化されたようなシャンプーのひとときを思い出す。
そう。今日のわたしの体は子猫の香りがする。

長期で病欠をしている会社の彼の部署名簿を見ていたら彼の名前がなかった。担当の人から彼が亡くなっていたことを聞いた。300万分の1の確率があたって病気になったことを嬉しそうにわれわれに話してくれた。彼が説明してくれた自分の寿命よりも、3ヶ月くらい長く生きたことになった。
週末は実家の犬を連れて公園へ行く。犬の名前を呼ばれて、犬を連れた年配人たちのグループに引き止められる。母からも聞いてた犬仲間の人たちだったが、犬の姿だけで判別できるとは恐るべし犬認識力。彼らから、今日は公園で自殺者が出たのだと、煎餅を道に落としたと同じような口調で説明される。「こんな公園で自殺するなんて迷惑ですよね」と言うが、自殺した人も爺さんだった。と八重桜に吊るされた紐から揺れる体をみた人から言われる。一人暮らしだったから、早く発見してもらおうと公園で自殺したのだろう。と、彼を何度か見かけたことがあるとか、ロープはピンクだったとか、救急車は死体を乗せなかったとか賑やかに説明をする。わたしが少し嫌がる顔をしたのに気づいたのか、亡くなった人の話は貯めておかずにどんどん周りに喋った方が、彼らの魂が安まるのだと言われた。あの木で吊ったのだ。と指さした木の根本には目立たないようにコンビニ袋があって、中に煎餅が入っていた。
犬が木の根本で鼻をならして匂いを嗅いでから腰を降ろして小便をした。われわれが帰るときにもまだ、同じベンチにお年寄のグループがいて、楽しそうに話しをしていた。小さなデイケアセンターの前を通ると、カラオケの唄がきこえ、庭越しにじっと外を見ているお年寄と目が合ったような気がした。
犬を戻した後にトイレを使うと汚れが気になって掃除をする。風呂場も磨く。なんとなく窓も掃除する。料理は適当な物を作る。昔から母親は料理が適当だった。自分の家の料理の不味さは小学校の高学年で友達の弁当を食べるまで気づかなかった。洗濯も掃除も汚れが落ちればよくて、食事も満腹になればいい。あとはひたすら働け。というのが母親の体の何処かに張り付いてあるモットーだ。昼も夜も働いて内職までしていた。彼女は自分の一生をどう思っているかなんてことは聞けない。親もわたしも上手にするということが何ひとつできない。

録画をしていた前田司郎の芝居を観る。にやにやできる自分に安心する。
映画はライラとケロロとしんちゃんと王妃の紋章クローバーフィールドとかとかそのあたりらを見た。なんて大袈裟な。とその大袈裟ぶりをとりあえず笑える自分に安心する。
少女漫画をたくさん読む。よく読むはてなの人が書いていた岩本ナオとか小玉ユキとか志村貴子とかとか。今でも少女漫画の少女漫画らしいところを「かなり面白い」と思える自分に安心する。
ライブに行く。よく読むはてなの人が教えてくれたRaidWorld Festivalに。 完璧な予習もしていたけど、アルバムでは感じられない音が聞こえて大満足。world's end girlfriendを目当てで、最初からオロオロする。envyは、横のレスラーのような人が暴れたら恐いと思っていたが、微動だにせずに音楽を聴き入っていた。そして想像以上に美しい音を聴きながら、envyこそテレビの歌番組に出ればいいと思った。出るべきと思った。monoも激しく美しくて、これもまたみんなが微動だにしないで腕組みをしたまま聞いていた。Explosions In The Sky の生音は、見事に揃って丁寧で美しかった。ギター3人が揃った姿が美しくて、あれは鏡で揃える練習をするのかしら。とか思ったり。生の爆音が美しいと思える自分にとても安心。最後に「今度はまたすぐに来るからね」みたいなことを話していたのは、フジロックだろうと勝手に思う。今年はフジロックに一人で行けるような大人になってみせる。バイクの大型の後ろに猫か犬かあるいは両方を乗せて苗場に行って一人でテントを張れて自炊までする、わたしはそんな大人になれればいい。
あ、動物の名前がカワウソであったことを思い出す。朝顔のタネを蒔いたら、すぐに双葉がでてきた。しばらく朝顔が無事に咲くまで朝顔日記を書いてみよう。かしら。植木鉢がなかったので、釜飯の釜を鉢にする。写真は下三つがVQ1005