阿部和重とシベールの日曜日

わたしにとっての阿部和重の小説の印象は、「二度は読みません」なのだけど。それでも、日本を代表する作家かもしれないですね。と、襖の陰から控えめにはつぶやける。しかし、シンセミアのあとに、これからはさすがに違う路線で行くのでしょう。と思っていたら、違うどころか、シンセミアのあとの「馬小屋の乙女」でも、シンセミア神町を舞台にして描く。もう生涯神町作家となったのかもしれない。ただ、「馬小屋の乙女」は、シンセミアのようなアクやコシがない短編なのに、何か小説の間を抜き取ったかのような中途半端さ。その奇妙な中途半端さは、今回の芥川賞受賞作であることころの「グランド・フィナーレ」でも健在。もちろん、それは意図的な物語の構図なのだろうが、ロリコンという言葉と淡々として、かつ襟首をつかまれるような語り口で、悪の塊のようなものが描かれてくるのかと思うと、それもまた大きく外されてしまう。
主人公である中年のロリコン男をきちんとだめな側の人間として描き、友人の女性からもわざわざ熱のあるところに尋ねられて「軽蔑せずにはいられない」と言われたりする。その物語の大半で、主人公の頼りないだめさぶりが、通常の倫理観で納得するように描かれる。ただ、淡々と進む物語が後半になって、二人の少女と出会うことで、その倫理というねじが奇妙に曲がり始める。
それは、ロリコンの主人公にとって、彼女たちもまた、今までの欲望の対象であったはずの少女と同じ気持ちか、あるいは何か「もっとわるいこと」が起こるはずだと予測するところを、唐突ともいえるような彼と彼女らへの物語の終焉を迎えてしまう。それは、あまりに唐突といえば唐突なくせに、描き方はむしろ美しく、彼と少女二人の物語を祝福している。ここに感動のようなものを感じてしまうと、彼が起こしてきた今までの自分の娘や少女に対しての行為というものすら肯定できてしまうのかもしれない。少女を好きになってしまう男がいてもいいのかもしれないと。
そして、あいかわらず阿部和重の描き方は登場人物に感情移入させるようには描かれていないだけに、怖さと儚さを併せて感じさせられる。一歩というか、百歩くらい間違えれば、阿部和重が描くロリコン物語は、シベールの日曜日に近づけるのかもしれない。
ただ、この小説がメディア論であろうが、巨大な神町フォークロアの一部であろうが、ここで切り取られた中篇小説「グランド・フィナーレ」だけからは、読み応えがある物語とはあまりいえない一遍だった。単行本にするときは、前作馬小屋の乙女とあとひとつくらいを併せて出すのだろうか。