おとながい

本の大人買いとは、全集やシリーズをまとめて買うことよりも、同じ本を何冊も買うことだ。家にあることや読んだことを忘れて買ってしまう。馬鹿買いなのかもしれない。そもそも発見できないだけで最近買っている文庫本の殆どは何時か読んだ本だったのかもしれない。そんなたぶん読んだはずなのにすっかり中身を忘れていたスタインベックをひたすら読む。アメリカ南部文学というジャンルが本当にアメリカにもあるのかわからないけど、わたしは映画も小説も音楽も漫画も漫才もこのアメリカ南部テイストに弱い。そういうわけで、今日のわたしは「静けさとはいつも跪いているものなのだ」というアメリカ南部風の気分なの。で、ジョン・スタインベックの小説は「怒りの葡萄」も「エデンの東」も映画になっていて、実は映画でも充分というくらい映画化の出来はいい。そのおかげで映画を観た後にスタインベックを読むと、どうも登場人物がヘンリー・フォンダだったり、ジェームス・ディーンだったりして脚本を読んでいる気分になってしまう。そして「二十日鼠と人間」にいたってはわたしが映画を観ていないこともあり、やはり大人計画の「母を逃がす」の荒川良々宮藤官九郎のコンビのイメージで読んでしまう。そして二人の台詞が東北訛りに聞こえてしまう。とか書きつつも今度は「母を逃がす」の方を忘れてしまっていたので、DVDで見直してみる。それは想像以上に「二十日鼠と人間」の物語だったが、かの二人の名前が葉蔵と万蔵という名前になっている。松尾スズキの名前のつけ方はありえないくらい素敵だ。スタインベックの小説やアメリカ南部文学やあるいはニューシネマの特徴を一言でわたしがまとめさせていただくと「美しい悲劇」ってやつだ。どうしようもなくせっぱつまった登場人物達を愛しく思わせて、結局はその崖の縁からみんなこぼれ落ちていく。しかしそんな悲しみ自体が美しすぎてハッピーエンドかのように納得して物語は終わってくれる。
わたしが小学生のときに何の読書感想文でも使った「小説の99%は恋愛小説でそのうちの50%は同性愛小説だ」理論は今でもわたしには充分通じる。そしてついでに松尾スズキの作る芝居はいつも、神様のようなものが出てきて始まり、神様のようなもので終わることもわたしは知っている。