マーラーの上野

特にどこへ行こうか何も決めずに朝早く出かけて、思いつきで上野で降りてみる。コートのフードを被ってマスクをつけ、両手をポケットに入れたまま一人で上野公園を歩きながら、一人で歩いている自分に大人を感じてしまう。日曜日の早朝の上野では、不審な男が池を眺めているという光景が不忍池中に広がっていた。きっと上野には、退屈な大人の男どもを惹きつける匂いが池の真ん中あたりから出ているのだろう。と、ipodマーラー交響曲を聴きながら歩き回る。昨年からよくクラシックを聞くようになったのは、iTunesで、50,000円くらいするクラシックのBoxセットが、おそらく価格のつけ間違いで、いろいろなBOXセットが1,500円で ダウンロードができてしまったからだ。そのお得感だけで詳しくもないクラシックのBOXセットを見つけては、セットによっては録音時間100時間みたいなBoxをHDDの増設までして、一晩がかりでダウンロードする小市民なわたしだったのだ。とはいえクラシックへの造詣が深まるようなこともないまま、上野の冬の景色にはマーラー交響曲第9番 ニ長調がよく似合った。みたいなイチカバチなことを書いてみたくなる。そんな似非クラシックの心とポケットに夏目漱石の「明暗」を入れたまま、不忍の池を一周し、坂を上って東京文化会館の前に出る頃には、噴水池の周りには大道芸人やギターを抱えて唄う集団や日曜日を動物園か美術館で過すんだからねという気合いが入った健康的な家族らで賑わっていた。そんな気合いの波にわたしも乗ってしまえと東京都美術館ルーブル美術館展に入ってみる。とはいえ想像していたルーブル美術館の絵画展ではなく、煙草入れ、灰入れ、それから煙草置き、みたいな陳列だったけど。それはそれで、日曜の朝から上野の美術館にいる大人っぽい自分に満足をすることにした。さらに帰りに自分の大人度にとどめをさすように映画「テラビシアにかける橋」を見て、自分へのプレゼントにケロロ軍曹のICカード入れとクリスマスCDを購入。「テラビシアにかける橋」は映画の作りは凡庸な家族映画でもあったけど、死の描き方はとても正しかった。日本映画が、あるいは日本人ができない死の描写と死生観なのかもしれない。死が突然やってきて、そこから少年が再生する抑えた丁寧な描写は美しかった。わたしにとって、わたしが知っている誰かが死ぬこと自体は少しも悲しいことではなくて、悲しいのは、その人と話すはずだったことが話せなくなって、一緒にするはずだったことが出来なくなることなんだよ。と、こんな映画を観ながら誰かに説明したくなる。
大人の男の締めとして、数年ぶりに時間がかかる料理をしたくなり豚の角煮を作る。ほんとうにキッコーマンが言うように醤油とミリンの1対1だけで作ろうとするが、せっかくなので、ニンニクと生姜を入れ、卵と大根も一緒に煮ようとするところで、わたしより日本語と仕事の手を抜くのが上手な中国人から貰ったお茶たまご用の「五香粉」を入れる。1時間半かけて煮た豚と大根と卵のお茶煮は、中国の大人の味が激しくした。