ジャン・アンリ・ファーブル「昆虫記」のつづきとしてのヤン・ファーブル「死の天使」

文学であって詩集でもある「ファーブル昆虫記」は、いつもわたしの本棚の特等席にある。だからヤン・ファーブルについても、美術作品や舞台も何度か見たことがあった。そのくせ、今回は期待よりも歳をとったピーター・グリナウェイの映画に豪華だけどひたすら疲れさせられてしまうように、そんな豪華な疲労感の覚悟だけを抱えて全く予備知識なく埼玉へ。しかし、閉所恐怖症気味のわたしは、大ホールのくせに舞台の上に作られた密室に座布団を抱えさせられて押し込められただけで、血圧が上がったのか下がったのか目眩を覚える。そして、そんなわたしの血圧は、最後まであがりっぱなしだった。嫌な場所に閉じ込められたという手に汗がでる圧迫感から、この空間が永遠に続いてほしいと願う見事な高揚感と変わっていった。今回の舞台も1.2メートル四方の舞台の上に立つのがたった一人のダンサーであっても、これは舞踏ではなくて、演劇という舞台だった。四方の映像に写し出されるウイリアムフォーサイスやファーブルが作成した死のイメージに対峙させられて生の嗚咽をあげるのは、彼女ひとりではなくて観客全員であった。全ての動きと音と映像の静かな洪水と観客の体から出た何かが狭い空間を覆った。
すごいものを見てしまったという恍惚感と脱力感を抱えて埼玉からほとんど無意識に千葉まで生還できた。わたしやわたしを取り囲む家族や犬や猫たちにくっついただらしない生死の狭間も、あの舞台の上の鮮烈な生死の葛藤によって、晴れ晴れとした気持ちにさせられた。その晴れ晴れの勢いでジャンボシュークリームとジャンボプリンを気持ちよく食べて薬を飲んだ。わたしはわたしの周りの起こりうる出来事を、順序を間違えずにやっていこう。順序よくね。と自分に念を押す。そして、こういう時に限って次の日はまた沈んでしまうことを予感しながらも、わたしは明日の冬の海を走る支度を整えた。