中国の性的な役人

Shipbuilding2008-03-02

餃子を食べていたら歯が抜けた。母が救急車で病院に入り入院する。自分の病気のことよりもアルツハイマーになった父を家で看病ができなかったことで自責の念で苦しんでいたこと語り続ける。またしても、自分の感情の薄さと追いつけなさぶりを知る。病院ではまた両方ともかなり背中が曲がった老夫婦がいた。認知症が進んだ夫を罵倒する妻とその罵倒が暴力に移っていくところを大勢の病院の職員が羽交い締めで止めるところを目撃することになる。パトカーが駆けつけた病院中で大騒ぎになるいっぽうでわたしは、歯医者に行った方がいいかもしれないなあと首をひねるのがせいいっぱい。

 湯島から

人は最初のセックスについては、リボンでくるむようにして大切な場所に丁寧にしまい、語ったり語らなかったりしても、そこかしこで最初のセックスについて想い出す会というものが開かれている。しかし、それに対して最後のセックスについては、全く語られることがない。要するに、歴史的に見て最後のセックスが生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったのだ。 最後のセックスは国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられたのだ。という全くもって村上春樹的にわたしは最後のセックスについて湯島の街を歩きながらずっと考えていた。湯島や上野の街の少し裏道には危険でエロチックな匂いを感じてしまい、蒲団のラブホに行こう。行こうよ蒲団のラブホに。といつも一人ごつるのはわたし仕様なのだろう。そして、最後のセックスについての考えはインド象みたいに足音をたててやってきて。

 H・アール・カオス

湯島のデリーでカレーを食べて汗をかきながら歩いて上野文化会館まで辿り着くと、劇場の入り口には救急車が回転灯をまわしながら停まっていた。それは、H・アール・カオスの舞台で使われるロープ吊りの保険のようなものだったのかと思ったのだけど、真相はわからないまま、入場が始まってもずっと救急車の赤い回転灯は回り続けていた。前日の電話では当日券は結構残っているという話を聞いていたのだけど、売り場で教えられた当日券の残席はほんの僅かだった。前日にベニサン・ピットの椅子に座っただけに、久々に座ったこの小屋の大きさに驚く。H・アール・カオスが、大島早紀子が拡大していった夢の果てを見せるには、ここまでの舞台の広さが必要だったのだろうか。「中国の不思議な役人」は、舞台の横も縦も上までをも使いきった舞台装置と、ダンサー全員の動きの大きさに胸躍る。ただ、それにしても触れる距離で首藤康之を見たあとに、川向こうのような距離で見るこの日の鳥居みゆき風衣装の白川直子は遠かった。「中国の不思議な役人」は、モダンダンスや演劇の舞台で何度も繰り返されて上演されていることの要因には寺山修司的「中国の不思議な役人」物語の影響がある。そして寺山修司自体も、自らのこの公演以降の作品全てに、この中国的なエロスと死生観が混入してくる。というのがわたしの寺山修司観なのだけど。それもまた別の話。
寺山修司やその多くのフォロー達が舞台で描き続けてきたように、エロスと繰り返される生と死こそ、H・アール・カオスが続けてきたことだったはず。ただ、それが今回のスペクタルな装置がどう効果的に伝わったのかはわからない。モーリス・ペジャール の公演にしてもこの「中国の不思議な役人」という物語を言葉以上に情報量の多い肉体の動きだけから主題のようなものを捉えようとする力がわたしには欠けていて、かなり疲れてしまう。というよりも、ダンスに対してそんな観かた自体が間違えているのかもしれない。何度も舞台で観てきた「中国不思議な役人」は、何度殺されても死なない役人が、愛をえることで「ようやく」死を迎えることができる。という残酷なようでロマンチックな死生観といえなくもない物語だったのに、今回もいつもながらの大掛かりな仕掛けの踊りが、まるでシルクドソレイユのようなサーカスに見えて終わってしまった。というのは、、わたしが悪い意味でこの物語に囚われていたからかもしれない。
それと、ボレロの幕間の武満徹作品の演奏があって、指揮者が客席の中に入って指揮をする。という光景をはじめて観たのだけど。ああいうのは、よくあることなのでしょうか。さらに、そのあとにダンサーの休憩のために指揮者と大学教授のトークショウ。という光景も初めて見たのだけど、指揮者がものすごく声がよくて司会上手なところに立ち上がって拍手を送りたくなった。
わたしはボレロと書いて精子卵子の物語と読むくらい、セックスそれ自体の踊りだと思っていますよ。ボレロソリストもコロスも全員が女性というのは、H・アール・カオスしか知らないけど、女性のみによって踊られることで、いっそうボレロの単純さと美しさが引き出されていた。全体が赤い花びらで囲まれている舞台は、大島早紀子がどこかで語っていた、自分がかいま見てしまった死後の世界だったかもしれない。しかし、その舞台の中央で踊る白河直子の躯は神々しいほど生に満ちていた。赤い花びらが乱舞し、ここが高みの極めかと思わせたところで、もしかしたら、永久に終わらないのかしらと続けられる絶頂感では、傍観者のわたしはその光景を見ることは喜びよりも儚く美しすぎる性を観るようで苦しい。そして、突然止まる音楽と踊りの終焉にこそ、魂が昇る男性的なエロスか。と、わたしの鼓動も絶え間なく高くなって止まる。しかし、舞台が暗転して、これもまた立ち上がっての拍手がいつまでも続く行為は、参加型のエロスかしら。と、何にでもエロとかセックスに結びつけるこの頃はどうしたものだか。

 上野まで

そして、最後のセックスについての考えは、病気がちの猫のようにそっと佇んでいて。それは多くの人が、「ああこれが最後のセックスであったのね」ということについての可能性を考えない。あるいはそういう危機感をもってセックスをしないから最後のセックスは誰にも知られない世界の涯ての地中に埋まったままなのだ。誰もが、今日が最後の一日となることを知らないように。だけど、そのうちの半分くらいは、片側だけが「本当はこれが最後のセックスになるのだけど言えないわ」てなことを自覚していたりするのも。ねえ、残酷ではありませんか?とまあ、あるいは、そんなことは考えるに値しないことだという、あなたの考えも尤もだ。さらに、どうでもいいついでに、デスノートのように死神と何かの契約をすれば、最後のセックスまでの回数が頭の上に表示されたとしたら、なんだか素敵だと思う。最後の一回、二回とかると、身も知らない人にやさしくされたりするのかもしれない。うわあ、照れちゃうな。ひとからやさしくされたことがないから。と、そんな想像だけでにやにやすることもできるわたしだ。