朝顔とフェルディナン・ド・ソシュール

Shipbuilding2008-06-21

朝顔の蔓がのびる。最初に差した1mくらいの「ささえん棒」の頭を越えてしまう。どうしようと思っているうちに、次の日にはささえん棒から真横に蔓を延ばしはじめる。さらにどうしようと思って寝て起きたら、そのまま真横の姿勢で頑張ったまま40CMくらいの恐い感じで蔓が漂う。仕事をしていても朝顔の蔓のことばかり気になる。会社隣のホームセンタで一番大きな170cmの巨大な円形棒を買う。夜中の1時過ぎに鉢に差して、朝顔に謝りながら生物学的な右巻きで棒にお洒落な感じでからませる。朝見るとすでに一番上に辿り着いていた。鉢が小さくて円柱が巨大なので、すぐ倒れてしまう。再度鉢を替えるというのも危険なので、このまま樋に紐で縛りつける。かわい気がなくなるがSM的朝顔飼育。という方向で愛をこめるようなこめていないような気分になる。
わたしは裸眼で視力が0.1とか0.2なのに普段から眼鏡を使っていない。健康診断の視力検査は自分で画面を切り替えて「C」の空いている方向にバーを傾けるという方法だった。それがもうどっちが空いているかわからないどころか、映っている事すら全くわからない状態になっても、ひらすら勘だけでバーを傾け続け、見事左目0.8を奪取。これは確率的に0.25の6乗?宝くじの一等賞並みの運をここで無駄に使ってしまったのか。と逆にうな垂れる。
上野度が高い日々。西洋美術館の「コロー展」「バウハウス・デッサウ展」「井上雅彦展」。コローの展覧会なんてはじめて。ああ上野の森に住みたい。薬師寺展には2回行ったのだけど、来月の「対決 巨匠たちの日本美術」っていうのが可笑しい。格闘技かのような対決カードを見てわくわくできる。
サッカーの試合に誘われる。同級生が監督となっているチームで、人数が足りないからという理由で試合に出る。他のメンバは、殆どが10代。平成生まれにため口で良いですかと聞かれて、笑顔を作るわたしが恥ずかしいが、以外に走れンダと煙草を吸いながら褒められて照れる。サマソニに行くらしいが、わたしはフジロックへと大人の貫録を出してみるが、今年のメンバは厳しいよ。と的確なことを言われる。後半も必死で左サイドを走って何かのアピールをする。週末の度に平成生まれたちとサッカーをしている監督の同級生は離婚をして子どもを育てていたが、最近は子どもと一口も話していないらしい。平成生まれの女性とつきあっているらしい。往々にして人生はバランスがとれている。
流山児★事務所「双葉のレッスン」を見る。天野天街さんの芝居はなんだか、少年王者舘よりも、流山児事務所で見てばかりいる気がする。誰が出ても、天野世界的映像と言語の洪水が素晴らしい。
toe VS world's end girlfriend & poltergeist ensembleのライブでは、toeの「クラブでやれると思った」というMCのあたりで出てしまう。人口密度が高すぎた。気分が悪かったことしか覚えていない。
片腕マシンガールの試写に行く。「片腕マシンガール」公開&井口昇・生誕39年記念イベントというのまであるらしい。今、井口さんはすごいスポットがあたっているのだろうか。
実家でパンを作る。母親からパン屋のパンの方が美味しくて安い。と真実を突かれる。食べる側に手作りの価値は何もない。わたしが作ったパンは、わたしの味がした。
いろいろな都合で自分の時間がなくなる中でルールを作る。
その1:家に着いて作り終わる時間が10時前であればとにかく自炊。中国語を聞きながら簡単中華が多くなる。却ってカロリーが高い気がするが気のせいのはず。
その2:ゲーム断ち。中学生か。「Here's to You」だけを聴いてがまんしる。久々にきくこの曲が頭の中でリフレイン。MGS4もペルソナ4もシレン3も話しを聞くだけで涎が出るところまでで耐える。もちろん中国語の勉強をするために。
その3:雨でも台風でも猛暑でも毎日10k走る。もちろん中国語講座を聞きながら。
以上のことから、ひたすら猛烈に中国語を勉強。4ヶ月の通信教育を一ヶ月で終わらせる。ローラ・チャンのブログも読む。中国語講座以外のテレビにも良く出ているらしいが、もう他の番組には出ないで!中国語講座だけのローラでいて。
中国語と日本語は相互に影響しあっているくせに、双方で聞き取り難い音があるのが不思議。で、テキストとして、ソシュールの「一般言語学」も読む。「各民族語は相互に異なる固有の世界像を持つ」とか「言語の音声面での恣意性」について納得。
会社近くの寂れた中華料理屋にて、疲れた感じの中国の方に中国語で注文をしてみる。彼の顔がいっぺんに朝顔のような笑顔になる。彼女がわたしと同じ会社で働いているらしいことがわかる。もう行かないようにしよう。仕事でwikiを使ったりして、中国語の表示の仕方を調べていたら、あきらめていた「はてなで中国語入力」が出来るようになる。windowsでは、簡単なユニコード変換ソフトがあるけど、Macでは標準に入っている言語ソフトでも比較的容易に作成。こんな感じでこんな漢字。「好吃不如铰子,舒服不如倒者」
ラジオ局から石井食品の詰合せが届く。ラジオのリクエストがかかったらしい。リクエストの葉書の内容は上の文章のどれかで、曲はジョーン・バエズの方の「Here's to You」だったはず。

サッカーもランニングも中国語もソシュール言語学も何の役にもたたないだろうけど、気持ち良く疲れるところだけはわたしにとって大きな価値がある。

うつむき加減な彼女たち

Shipbuilding2008-06-08

朝顔のつるは左巻きという呼び方は正しくなく、これを生物学的には右巻きというらしい。DNAと同じであるその自然界の右巻きに挑戦すべく、つるを逆巻きにして「ささえんぼう」にからませた。朝顔からの悲鳴ともに、またもやゆっくりとつるがあるべき姿である右巻きに、わたしと猫の前で修正されて巻かれていった。今はこんがらがって棒に15周くらい巻かれている。
千駄木水族館劇場を再訪する。どこが変わったのかはよくわからず、「あいかわらず」な部分ばかりで安心する。ただ、畳席の両横が三階建ての桟敷席になっていることに気づく。ゴキブリコンビナートもそうだけど、水族館劇場も舞台や仕掛けが過剰で、そちらの方の印象だけが強くなってしまう。二度みて、主役の二人にとことん惚れました。しかしお見送りで並ばれていたときに握手をしてもらう勇気はわたしにはなく。とにかく来年も無事に公演をしてもらって、わたしも無事にあの桟敷席に身を乗り出して座って見たい。
トロイメライ ラスト.ワルツ―Secret story tour
島田虎之介の漫画をアックスで読むと、アックスの力が強くて。アックスの中の地味な漫画という失礼な印象しかなかった。「トロイメライ」も単行本でまとめて読んで良かったけど、ようやく「ラスト・ワルツ」をまとめて読んで改めて緻密な物語漫画だったのだとわかる。物語が物語に繋がっていく様に、南米の長編小説のような満腹感を味わう。

犬の写真を印刷してペンダントを作ったので、犬にプレゼントをする。あまり喜ばれていない。写真は体中で「ほんっと、やめてくださいよ」みたいな感じ。飼い主に似て喜怒哀楽がないので、恥ずかしがって俯いているだけだと思うことにする。今度はペンダントを着けているところの写真をペンダントにして、それをまた犬につけたところを写真にとって、またそれをペンダントにしようと思う。
辿り着けるかどうかわからないフジロックは、OZOMATLImice paradeが被らないのか心配をしている。あとは、ジェイコブ・ディランの生顔を拝みたし。
猫がいつにもまして行方不明になる。とにかく飛び上がって扉や蓋や引き出しを自在に開けてしまうので、なかなか見つからない。それでいてようやく隠れ場所を見つけると、また不機嫌な顔をしている。いや。食事をしたあともうんちをしたあとも彼女は不満顔が日常なのであった。写真は便器の横で「ほんっと、なんで気づかないんですかね」みたいな感じ。

調子が悪くうつ伏せに倒れて一日を過す。そんな隣にやってきてほしい時に猫はやってこないので、日向ぼっこをしたまま寝ている猫の横に行く。猫に顔を埋める。わたしは、他の猫一般は特別好きではないことに気づく。猫の体は冷めたパンのような匂いがした。とはいえ、この彼女のことだって特別好きだというわけではないのだ。といろいろなことに結びつけながら考えて自分を安心させると、わたしは冷めたパンの匂いにつつまれて気を失った。目が醒めたら、すっかり暗くなっていて鳴りっぱなしのMacからビートルズの「Across The Universe」が流れていた。
というわたしのリクエスト葉書が小林克也のFM番組で読まれるのを実家からの帰り道に車の中で聴く。小林克也を泣かすのも石井食品の詰合せを貰うことにもいたらず。句読点のつけかたとかいうやつを、わたしはよく知らないのかもしれない。と思いながら、サインペンを舐めながらわたしは適当なうそ話とビートルズのリクエスト葉書を書く。

一口吃不成胖子


朝顔は、かなり蔓が伸びてきていたので、ようやく棒を探してきて鉢にさす。この棒って何て言うのだろうか。あのカレーが入っているランプみたいなのの名前がわからないのと同じくらい気になる。仮にここで「ささえんぼう」と命名します。で、その棒を鉢に差すやいなや「ささえんぼう」につるがどんどん巻かれていき、わたしと猫が見守る前で30分くらいかけてクルクルと3,4周りくらい巻きついて止まる。朝顔から「おそいよ。んもう」みたいなため息が聞こえた。食虫植物のごとく植物は、その気になれば目の前で動いてみせるのだと猫とともに教えられる。

ベニサンピットで芝居を見るときは大抵森下駅近くにある、とある有名な蕎麦屋に行く。東京一とか評判な老舗の店なのだけど、なかなかその良さがわからない。何でも最初はわからなくても良さがわかるようになるには何度か試さなければいけない。というのは、中学生のときにボブ・ディランの初期のアルバムを何度聞いても念仏のようなメロディにしか聞こえなかったのを、歌詞が面白いというだけで何度も聴き続けていたら、とつぜんその音楽全体が言葉と共に豊かな表情に聞こえてきましたよということからの教訓だ。で、そんな無茶なことをするはずがない同級生の前で「Freewheeling」のアルバムをかけながら、そこに広がる景色は実は観察をする人によって全く違うものに映るのだ。という自分でもよくわからなかった「相対性景色論」という夏休みの自由研究を発表をしたことに端を発する。
そういうわけで、ボブ・ディランの言葉や音楽を親しんでいる人が住む人たちが創り出されている国の景色は、単調な念仏にしか聞こえない人が多くいる国とはまた違った景色に見えてしまうのだろうけど。また、音楽や小説らに広く接して親しんだからといって、景色が違って見えるんだよなんて嘯いたからといって、その人の生活が豊かになったり幸せになるわけではないし。それどころか実は、どうやらそれはまた逆であるらしいというのもまた大切な話なのだけどまたまた別の話。
で、その有名どころの蕎麦屋をはじめ高級料理店の味というのは、もうわたしには3000円以上はみんな高い味ということはわかるのが精一杯な味音痴だ。たぶんそれは、小さいときからジャンクフードや手抜きの料理ばかり食べていたことが原因かもしれない。なんて、そんな何もかもをも親の料理の不味さのせいにしては気の毒。母親が作る味噌汁だけは美味しかった。というのは、親戚が大量に手作りのだしの素が送ってくるので味噌汁にだけは出汁をぽちゃぽちゃ入れ続けたから。その結果、わたしの舌はだしの入らない味噌汁だけは認めないからね。という味噌汁グルメとなってしまった。また親に手作りだしを送り続けてくれた親戚が亡くなったり、そもそも親が料理をしなくなってから、わたしの前からおいしい味噌汁は消えてしまっていた。そこで市販のだしを買ってみようと思ってはじめてスーパーでだしの素やらをさがしてみたところ、そのだしの素がお高い。ということにいまさら驚く。と、スーパーの中で映画「ミスト」のラストシーンのように呆然と立ちすくんでいると、手作りだしパックという1900円で昆布、鰹節、貝柱、椎茸、煮干しが入っているパックが売られていた。試しで買うには高すぎるけど「せっかくなので」買ってみた。簡単な作り方というのが書いてあるのだけど、これが全く持って簡単ではない。それぞれの材料を空炒りして、ジューサーミキサーで粉にする。ってそんな物がないので「せっかくだから」犬を散歩に連れて行きながら、ヤマダ電機にて高機能ジューサーミキサーを3500円にて購入。また「せっかくだから」というか完全にやけになってヤマダ電機の下で売られていた宮崎産高級マンゴーをだし作りに失敗したところで美味しいマンゴージュースを作ろうと1個2000円にて購入。完全にわれを逸している。が、意外に昆布や貝柱を小さくするのが楽しくて、だしの素みたいなものが無事にできあがる。そのだしの素をザラザラ入れて、わたしが好きな大根とナメコの味噌汁を作る。こ。これは美味しすぎる。というか味噌がいらないかもしれないというくらいだしの味強すぎ!このみそ汁一杯のためにいくら使ったのか足し算はしたくない。そして、マンゴーを買ったこともすっかり忘れて実家に置いておく。
その後のだしの素は使われないまま瓶詰めにされ、その後のジューサーは人参とアロエのジュース作り機として使われ、その後のマンゴーは母親が食べられずに犬にやったけど殆ど残して捨てられたと報告を受ける。

映画「ミスト」は評判が悪いらしいけど、たいへん楽しめた。話題のラストだけでなくスーパーでの会話だけでも楽しかった。ただ、Dead Can DanceのThe Host of Seraphimはかなり反則気味。
ゴキブリコンビナート「いつかギトギトする日」を小岩で見た。彼らがここまでのことを成し遂げ続けていることに、きゃあきゃあ言いながら心から感動。ゴキブリコンビナートという芸は、その前にも後にも同類な物はない。
さいきん体の調子がどうも悪いと思っていたら、病院へ行くことを忘れていた。薬を飲むのも忘れていた。と正直に報告をしたら、「薬を飲むのを忘れると、全く飲まないことより、もっと酷いことになる」と脅される。「もっとひどいこと」と医者の真似を頭の中でしながら、今はわたしの周りの動植物らを元気な順で並べてみた。お金も愛情も望まないので、せめて同情でもいただきたい。
チケットを手にしてここまでは生きていくことになっていることたち
水族館劇場の再訪、toe VS world's end girlfriend、エミール・クリストリッツア、前田司郎のなんやら、女教師は二度抱かれる
できれば予定を入れてそこまで生きていきたいことたち
フジロック、中国語検定、中国で生活、中国で死ぬ

ローラにまかせればだいじょうぶだよ。ほんとだよ。

Shipbuilding2008-05-27

念願の水族館劇場をはじめてみる。はてなでよく読ませていただいているid:petsoundsさんやid:crosstalkさんやid:koshohoroさんらの毎年の報告がとても気になっていた。今年の舞台作りからの紹介は http://yanesen-urouro.bakyung.com/ がとても詳しくて写真が美しい。
自分のことを芝居好きだと思っていたのに、この劇団の芝居を今まで観ていなかったことが悔やまれた。すごいすごい。と雨が降る中、野外ではじまったプロローグからひきこまれる。そこから芝居小屋に誘導されて観た芝居は、まさしく芝居小屋の匂いがぷんぷんと香る見事な舞台だった。一番前で靴を抱えて文字通り水をかぶるところに座ると手を伸せば届くところに役者さんたちがいた。これがわたしが生まれてからずっと観たかったものだった。そうだったそうだったとうなづきながら、生まれて始めてみた幼稚園の時のせむしの仔馬のことを思い出したり。学生の頃、脚がしびれる小さな小屋で毎日のように見た小劇場のことを思い出す。冒頭で全員が出てきて唄う美しい歌が耳から離れない。芝居が終わって役者や裏方さんを一人づつ丁寧に紹介する桃山邑さんの姿にも痺れる。芝居が好きな人でもそうでない人もこれは生きているうちに観ておくべきものだ。詳しくは劇団のHPへ。公演は6月の9日まで週末を中心に。わたしも後半は芝居が変わってくるという情報が気になって最後の週に絶対再訪したい。
テレビの中国語講座を見ていることをオタク汁が頭の先から滲み出ている男子に話したら、そこに出演しているローラ・チャンとは一部の間(たぶん)で人気のグラビアアイドルでもあるらしい。こういう言い方は不適切かもしれないけど、チャイナ服の似合わない具合においてはアジアでもイチニな彼女だと思う。なんというかとてもアンバランスな雰囲気を醸し出していて気になる。二人で不確かな明るい日本語を喋るというローラ・チャンごっこをする。だけど中国語講座のドラマの中身は、ラジオや普通の中国語の水準よりかなり高くてテキストがないとついていけない。毎日2時間の勉強のおかげで小池栄子を少し追い越した気がして安心。しかし、朝まで中国語の勉強をしているというのは少しやりすぎかもしれない。中国語が出来るようになったからどうなるのだ。ということはとりあえず気にしない。明日も生きたからといってどうなるのだというのと同じことだ。それでも明日もやることがあるというだけで救われる。
黄色い雨
フリオ・リャマサーレスの「黄色い雨」が書店にはないので、図書館で借りる。ラテンアメリカ小説風の土の匂いがする語り口が美しい。返却するときに、もう一度読み返したくなって、延長をする。ああ、この延長がみとめられる。という感じはすてきだ。あのときやあのときにも、延長をお願いするというやり口もあったのかもしれない。たいていは断わられるだけだろうけど。
朝顔には蔓が出てきた。そろそろ棒をささないといけない。猫も朝顔も基本は放っておいても勝手に育ってくれるところがいい。毎週やってくるアマゾン便が届くとチャイムが鳴る前から猫は玄関の前にかけつけて尻尾をふってまっている。アマゾンが届くと、実際は見たり聞いたり読んだりできていないものらを取り出す間中、わたしの周りを回る。箱の中が空になるやいなや中に入って体を丸める。彼女が小さめな箱が好きなのは、体がきつく包まれるのが好きなのか。特にわたしが好きな物達が入っていた後が好きなのか。この写真はアマゾンではなくて、アルク中国語講座テキストが入っていた箱なので、「なんだかなあ」な感じの彼女。そうやって彼女の隣で中国語とフリオ・リャマサーレスの日々はたぶんつづく。

本当にほしいものは口にしません

Shipbuilding2008-05-23

水族館劇場を早くみたいとわくわくしていた。フジロックに行って、帰りに金沢美術館のロン・ミュエック展に寄る小旅行はどうかと思った。
台風で電車が止まって、みんなが総武線へ乗り換えるのに、そのまま駅のホームにいてアン・ブラッシェアーズの「トラベリング・パンツジーンズ・フォーエバー」を読み終わって、エイミー・ベンダーの「私自身の見えない徴」を読みかけた。トラベリング・パンツの映画「旅するジーンズと16歳の夏」という控えめに言っても傑作な映画のことを思い出してカタカタと検索をした。その映画で太った女の子の役を演じていたアメリカ・フェラーレという女の子がアメリカのテレビ番組「アグリ・ベティ」で主役で大人気になっていて今度映画の主役をやるらしい。と知ってへー。と思ったら、その映画の作品がまさしくエイミー・ベンダーの邦題「私自身の見えない徴」だった。そういうことってあるよね。
トラベリング・パンツ セカンドサマー―トラベリング・パンツ ラストサマー―トラベリング・パンツ ジーンズ・フォーエバー―トラベリング・パンツ
わたしは、何かそういう偶然の出来事に必ず理由があるものだと無理矢理に意味をつけてうろうろ生きている。だから自分にとって明るい方、甘い方へと体を向けるしかない。というわけで、そこらへんはわたしと同じような気がする朝顔も心配なくらいわさわさ育ってきていてすこしこわい。

中国語講座のローラ・チャンにも彼女を真似する小池栄子にもなりたい

Shipbuilding2008-05-20

朝顔の鉢に釜飯の釜を使ってんだからねってあたりを写真つきで80年生まれの同僚の主婦に自慢すると、それは鉢が小さすぎて枯れてしまうと物知り顔で言われたので慌てて鉢を移す。冬に鉢で買った薔薇も猫に食べられながらまだ花を咲かせ続けてている。猫攻撃と雨風に気を使いながら毎日の手入れを忘れない。結構まめなわたしだ。男の甲斐性はまめさだ。という方向で夜中にこんなものを書いているよ。
父親の施設に行く。施設が酷くて惨めだから一緒に帰ろうと泣かれる。しばらくすると落ち着くかと思うが、次第に感情が激しくなり父と施設の職員とも揉み合いになる。一日いても父の感情も職員の感情も険悪なまま、家に帰ろうと泣き続ける父を残して帰る。母には父の様子を話せず、やたらにわたしの顔を舐めてくる犬を強く抱きしめる。
中国語講座が気づくと全く聞き取れない。小池栄子もついさっきまで村上龍と「カンブリア宮殿」に出ていたと思ったら、チャンネルを変えるとすぐに中国語を話しているのがシャク。悔しくてラヂオの中国語講座も始める。VQ1005の写真は数年前に頂いたラジオ。AMはあまりよく聞こえない。ラジオを貰った人からも今はあまりよく思われていない。
もしそれが、本当にかなうのなら、友よ、友よ、中国はあまりに遠い。

「少林少女」は不思議なくらい面白くない映画だった。
ボブ・ディランの「アイム・ノット・ゼア」は、眩く煌めく映画。耳に蛸ができるくらい聞かれた、無人島にもっていく一枚とか死ぬ前に聞く一枚は?という質問には、わたしはボブ・ディランだったら何でもと答える。一時期は本人よりも聴きこんでいたのではないか。というくらいディランかぶれ。だから思えるわけではないだろうけど。音楽伝承の映画として正統的。それでいて泥臭く神秘的な演出も気持ち良い。ディラン以外の歌手の唄も見事でそれが気になってサントラを買う。
阿佐ケ谷スパイダースは、いつもオリジナルを感じない舞台だったど、今回「失われた時間を求めて」はそれがいつにもまして空疎。ただ、舞台はお金と時間をかけてセットも美術も衣装も作り込まれていて統一された色彩はきれい。鴻上尚史の旗揚げ公演「グローブ・ジャングル」も、想像通りに面白くない。かつては、あんなに面白かったと思ったこちら側に問題があったのか。あるいは鴻上尚史は何も変わっていないのかもしれない。とよくわからなくなるけど。
満員にならなかったスズナリで観た風琴工房「hg」はこんな真剣で挑発的な舞台だと思わなかっただけに衝撃。一部から二部への緊迫から弛緩への展開だけでくらくらする。しかしその二部こそ、なだらかな障がい者の芝居自体を舞台で批判するという挑発。かねてより健常者の障がい者芝居に感じていたことを直球で怒ってくれたのだが。また、それに見事に水俣病患者の芝居で役者が答える場面は、何に対して胸が苦しくなっていくのかわからなくなる。舞台の上でなんで演劇なのかという投げ掛けられた問いは、これこそ演劇でなければいけないのだという答えを、終演後ほとんどの人がそのままアンケートを丁寧に書き続けていた光景が示していた。
自分で偶然みつけた作家は特別なものになるけど、また人から教わった作家もその人のこととあわせて記憶に残る。
となりのこども そのぬくもりはきえない Lemon Tea 
小説では岩瀬成子。この人のことを全く知らなかった自分が残念。これから追いかけて読んでいきます。いつかわたしの岩瀬成子特集を書きたい。音楽はNomad。この歌い方と声にわたしは弱い。
カレーを作るときに野菜を焼くと美味しいから煮物を作る前にも野菜を焼いたらどうかと、焼いて焦げめを作ってから煮ると大正解。特に生の大根を焼いてから煮ると美味しい。と80年生まれの主婦に自慢すると、特許を取った方がいいと感心してもらえる。男の甲斐性とは、地位やお金やセックスの回数や優しい言葉だけではないのだ。大根を焼いて母の隣の家に持っていこうという発想と親切心だ。小さいな、わたしってば。
愛が無くなって親切だけが残った。みたいなことを言ったのはヴォネガットだったけど。愛とかいうのは対象がいたときの幻でしかなくて、親切は生まれつきの才能なのだ。と、自分を無理矢理讚えてみるが、大根の話とはもはや何も関係がない。
そして今朝の風で朝顔の茎が折れていた。

ミランダ・ジュライにつかまった日

Shipbuilding2008-05-15

すべては、MARK KOZELEKからはじまってMARK KOZELEKに終わったようで、やはりミランダ・ジュライで終わった日。
もうすっかり忘れていたMARK KOZELEKを思い出させてくれたために、わたしはiTunesにも入っていなかったSun Kil MoonやらRed House Paintersのアルバムをごそごそと探していたところで、古い雑誌や漫画が出てきたので、だらだらと横になって眺めたり読んだりしていたところ、雑誌「YOMYOM」のミランダ・ジュライの短編が素敵すぎてびっくりした。それは、同じ小説ならば偶然R・ブローティガンやE・ケイニンやC・マッカラーズの本を見つけて驚いたのと全く同じだ。誰かの勧めで読んだのではなくて偶然どこからか見つけだして面白いと思ったものは自分にとって特別なものになる。そんなことは小説だけでなくて、音楽や映像や食べ物や風景や人も同じことかもしれないけど。
とにかく、その雷が落ちたようなミランダ・ジュライショックを受けた日。ユリイカですでにミランダ・ジュライを読んでいたことも探りだしたのだけど、こちらはそれほどはピンとこない。それからもだらだらと横浜トリエンナーレのフライヤーを眺めていたら出展者なんて殆ど知らない人ばかりなのだけど、舞踏の人がいるなと思ったそのあたりにミランダ・ジュライの名前を発見。まあしかし、小説を書く人がトリエンナーレで踊るはずもないから同姓同名の人なのだろうと思っていたところで、新聞のテレビ欄にしかも殆ど眺めないNHKのBSでミランダ・ジュライ監督という文字の映画「君とボクの虹色の世界」という文字まで発見。それはもう絶対あの小説を書いたミランダ・ジュライだろうよと決めて、録画ボタンを押して、MARK KOZELEKのライブに出かけた。
もちろん、MARK KOZELEKは、とても素敵で同年齢の人が多い客層にも安心し昔のハル・ハートリー映画のことを思い出させてくれたり。2時間しゃがむことも寝てしまうこともなく、二人のギターと一人の声に気持ちよくさせてもらえた。りして、1時間かけて家に帰ったところで、気になった「君とボクの虹色の世界」を見てしまったら、これが最初から最後まで目がホチキスどめ。
君とボクの虹色の世界 [DVD] Wholphin No.1 ~UNKNOWN FILMS~ [DVD] No One Belongs Here More Than You: Stories
どのシーンも美しくて不思議で可愛くて奇妙で切なくて情けなくて可笑しい。と、すぐに映画に出ている女性がミランダ・ジュライだろうと確信し、あの横浜トリエンナーレに出るのもこのミランダ・ジュライに間違いないと頷く。映画は強引にまとめると、「100%ガーリッシュ映画」っていうやつか。もう若くないくせにガーリッシュって言葉に耳が大きくなってしまったり、アルパカやカピバラが好きな女子や男子はとにかく「君とボクの虹色の世界」(原題はすてきな「Me and You and Everyone We Know」)っていう映画を見るしかないですよ。というわけで、MARK KOZELEKのことを思い出させてくれた人に、ミランダ・ジュライの映画はいいんだよって言ったところ、知っているどころか、わたしに前にいろいろとこの映画の面白さを教えてくれたらしい。これもすっかり忘れていました。もうしわけない。好きなものは、何度も好きになり直せる。生まれ変わってもきっと、同じ物や事や人を好きになるのでしょうね。ということで。
で、小説はまたもや岸本佐和子さんの翻訳で今年中には短編集が出るのだとか(原題は「No One Belongs Here More Than You」)そこらへんのもろもろはユリイカ3月号の岸本佐和子さんと山崎まどかさんの「わが世界文学けもの道」が楽しい。ほんとうはよく知らないミランダ・ジュライのイメージはローリー・アンダーソンほどトンガッテなくてビョークほど政治的ではなくて。。身近にいるアート好きで無理して何でもやってしまう人。みたいなイメージで。小説のミランダ・ジュライや映画のミランダ・ジュライをそれぞれ好きな人がいるけど、日本でミランダ・ジュライを発音させたら、わたしがいちばん思いをこめて「みらんだじゅらあい」って言えると思う。というミランダ・ジュライにつかまった日。わたしはもう人にたいしては特別な思いをもたないでも生きていける気がした。



朝顔はたぶん、おおきくなっているのではないだろうか。水は雨水におまかせして全くあげていないのだけど。それってどうなんだろう。
猫の食事どころを、冷蔵庫の下に移す。わたしが冷蔵庫を開けるたびに彼女もやってくる。上と下で一緒に食べ合うというのは、なかなかいい感じだ。冷蔵庫の写真はランニングのときによく会う猫。どれも写真はVQ1005